藤原良房

提供: ArtWiki
ナビゲーションに移動 検索に移動

ふじわらの よしふさ


画題

画像(Open)


解説

前賢故実

sakBK01-0080-07_28.jpg

左大臣冬嗣の次男。立派な容姿を持ち、弱冠の歳で嵯峨天皇の娘、源潔姫の夫に選ばれた。承和中、参議、從三位を叙せられ、右大臣にまで務めた。良房は辞職しようとしたが、許可してもらえず、翌年に從二位を叙せられた。仁寿と斉衡の間に、さらに正二位へ栄転、左近衛大将を兼任し、国史(続日本後紀)の監修をしていた。天安元年、再三固辞したにもかかわらず太政大臣に任ぜられ、しばらくして從一位を授けられた。清和天皇が即位したとき、良房は摂政になり、準三宮(太皇太后、皇太后、皇后の三宮に准ずる待遇を与えられた人)という称号を賜り、年官や年爵(人の代わりに官職や爵位を申請し、官爵を得た者から利益を得る)を与えられ、太刀を携える資人(警護)三十人を賜与された。貞観五年、良房の六十歳になることを祝い、内殿での宴席を賜り、賜与された宝物にはすべて六という数字が使われた。翌年、清和天皇が元服し、良房の摂政を辞することがゆるされた。それからまもなく、清和天皇が染殿花亭に幸したとき、良房は文人を招いてきて、宴を開いたり詩を詠んだりして、君臣とも終日楽しんでいた。また、清和天皇が御射場殿で自ら矢を射っている際、良房は農民を集めてきて農作物の種を播かせ、帝に農業の難しさを知って欲しかったのだ。貞観八年、勅命によって良房は再び摂政になった。同十一年、編纂した続日本後紀を献上。同十四年、良房が重病になったため、詔によって刑の執行猶予、老人や孤児に対する慰め救済、および全国の罪人に対する恩赦が行われた。同年九月、良房は東一条にある自宅で亡くなり、享年六十九歳。帝は宮中で良房の死を悼み、三日ほど政務をしなかった。良房は、正一位を贈られ、美濃公を授けられ、忠仁という謚を賜った。世俗では良房は染殿大臣と呼ばれていた。

御むすめ染どのの后のおまへに、さくらの花のかめにさされたるを御覧じて、よませたまへる

としふれば よはひは老いぬ しかはあれど 花をし見れば もの思ひもなし

(『前賢故実』)