藤原百川

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ふじわらの ももかわ


画題

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解説

前賢故実

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初名雄田麻呂、式部卿藤原宇合の第八子。幼少より才能と度量があった。各官職を歴任し、在職中での勤勉さおよび慎み深さにより名声をあげた。孝謙天皇が道鏡を寵愛していた頃、百川は混乱に陥りそうな国政を心配して、自分の力でこの難を救えないことに常に憤慨と悲歎に沈んでいた。神護景雲四年、称徳天皇が崩御、皇嗣が定められない情況になった。百川は白壁王を擁立しようとしたが、右大臣の吉備真備の反対に遭った。しかし、百川は遺詔に仮託して、儀仗隊を用意させ白壁王を迎えることにした。真備がこれを黙認した。それで白壁王は即位し光仁天皇になった。宝亀九年、百川は從三位に叙せられた。光仁天皇は、忠義を貫く百川に対しては大変信頼していた。時に皇后が驕逸で不徳な振舞があったにもかかわらず、これについては帝は悟っていなかった。百川は深い憂慮を抱き、窃かに天皇に、皇后および皇太子を廃し、帝の長子山部親王を皇太子に立てようと奏請した。光仁天皇はこれを聞入れなかった。殿上では、藤原浜成が稗田王を皇太子にしてはと発言したら、百川は剣を押えながら怒りの目で浜成を見て「山部親王は、誉れ高く常に人々の手本になっている。天下の人々が山部親王を推戴するだろう。敢えて異議を唱える者がいるだろうか。」と叱った。光仁天皇が立上り内殿に入ろうとしたら、百川は大きな声で「陛下のご聖断を頂けなければ、臣は殿上から退出することができない。」と言出した。それから、百川が宮殿の前で立ち続けて四十余日、光仁天皇はついに百川の誠意に感動して、百川の奏請を聞入れてあげた。山部親王は皇太子に冊立されて、後に即位して桓武天皇となった。宝亀十年、光仁天皇が病となったとき、百川は気持ちが顔に出るほど憂慮し、医薬や祈祷の面で苦心と労力を尽したが、帝の病気が却って重くなった。同年に百川は薨去、享年四十八歳。從二位を贈られた。

(『前賢故実』)