藤原広嗣

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ふじわらの ひろつぐ


画題

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解説

前賢故実

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式部卿宇合の長男。容貌と体格が立派で、頭上に数寸の肉の角がある。古典籍を博覧し、仏教にも精通。素晴らしい武芸の持主で、兵法をも習得していた。ほかに、天文、陰陽、音楽などについても精究しなかったことはない。天平年間、太宰少貳を勤めていた。当時、僧玄昉が帝の寵愛を受け僧正に任じられて、内裏にある仏堂で屡々説法を行い、光明皇后のそば近くに仕えていた。玄昉と皇后に関するよくない噂が立たれて、広嗣は帝に玄昉をとがめるようと要請したが、帝に退けられた。広嗣が太宰府へ赴任した後、彼の妻が家を守るために京に残った。玄昉が美しい広嗣の妻を手に入れようと企んでいた。広嗣の妻が玄昉の企みを太宰府にいる広嗣に伝えた。妻の報告を受けた広嗣は、大いに怒り朝廷に上表し、政事の得失や天地の災異について論じ、玄昉と吉備真備を罷免するようと懇請した。しかし、朝廷は広嗣の上表を受けても精察しなかった。広嗣はついに挙兵をした。朝廷は広嗣を征伐する将兵を派遣した。官軍と対陣することになり、乗馬した広嗣が出て「ふつつかながら勅使が誰だ」と問い掛けた。官軍の人が「衛門督佐伯太夫と式部少輔安部太夫だ」と応じた。すると、広嗣は下馬して拝礼し「わたしは朝命を拒んでいるのではない。帝のそばにいる悪人を取除きたかっただけだ。」と言った。官軍の人が「何故挙兵をしたのか」と再度聞いた。広嗣はこれに答えず、乗っている千里馬を走らせて海に入った。後に、玄昉は左遷されて任地で亡くなった。これは広嗣の祟りだと世人が言う。真備も流謫になった。それで真備は筑紫へ行き広嗣の墓の前で祭祀を行った。そして、広嗣を祀る神社が建てられ、鏡宮と尊称されている。

この花の 一枝の内に 百種の 言ぞ隠れる おほろかにすな

(『前賢故実』)