藤原富士麻呂

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ふじわらの ふじまろ


画題

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解説

前賢故実

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温雅な人柄で、若くして大学で学び、史書や漢籍に通じるだけでなく、弓馬にも長けていた。仁明天皇が太子であった頃に、富士麻呂は少し恩遇を被り、天長末年に東宮少進に任命され、しばらくして右近衛将監になった。仁明天皇が即位すると、富士麻呂は從五位少将に昇進した。承和九年、伴健岑、橘逸勢らが謀叛を起こしたため、富士麻呂は佐伯宮成とともに衛士を率いて反逆者を包囲し捕まえた。その後、從四位下を叙せられ、中将に昇進した。富士麻呂は長く宮廷の宿衛を務めていたので、周りの兵士たちに厚く信頼されていた。仁明天皇は富士麻呂のことを「統帥の才能がある」と褒めていた。承和十三年、陸奥出羽按察使に任命され、赴任する日に清涼殿で天皇より衣服等を賜った。嘉祥二年都に帰ってきた。その翌年に亡くなり、享年四十七歳。息子の敏行が從四位上を叙せられ、左近衛中将になった。敏行は書道に長け、和歌に秀でた。村上天皇がかつて古今の書道家について小野道風に尋ねたことがあって、小野道風は空海と敏行の名前を挙げた。

霜つきはてのとりの日 賀茂の臨時の祭に 藤原としゆき朝臣

ちはやぶる かものやしろの ひめこまつ よろづよふとも いろはかはらじ

(『前賢故実』)