藤原基経

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ふじわらの もとつね


画題

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解説

前賢故実

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淡海公の六世孫。叔父の忠仁公の養嗣子として育てられた。寛平三年薨去、享年五十六歳。正一位が贈られ、昭宣公と諡された。さらに、越前国に封じられ、食封や資人が与えられ、生前と変わらない待遇を受けた。基経の墓の側に墓守として一戸の人家をも置かれた。基経は在職中、神明を畏敬し恭しく周到に祭り、天災がある度に位の降格を奏請したが、いずれも帝に却下されたため、恐縮しながら職務に励み、天の譴責に答えられるように努力した。清和天皇朝では万機を総攬し、益になる事を成し遂げように務めていた。官吏たちが基経の政務を讃え、人々が基経の恩沢を頼り、基経のお陰で朝廷内外の平静と安定が保たれていた。儒学を崇めた基経は、元慶中勅命を奉じて十巻の文徳実録を撰定した。陽成天皇が人徳のない人々に間違った方向へ導かれて、狂暴なな振る舞いが多かった。摂政だった基経は、王に退位を逼った商の時代の伊尹、および漢の時代の霍光のように、やむを得ず陽成天皇を廃し、光孝天皇を即位させた。

醉望西山仙駕遠(酒に酔い西山を眺めると、帝の御車が遠くに行くのを見て) 微臣涙落旧恩衣(微臣の涙が昔帝から賜った御衣にこぼれてしまった)

公家傳文云、元慶四年正月廿日侍宴、坐謂左右曰「前陪太上皇命此宴、今日所着太上皇脱下御衣也」、此日応製詩末句及之、満坐感動、或有拭涙者。于時太上皇御水尾山寺。(朝廷に伝わる文章によると、元慶四年正月二十日に宴に侍った基経は、座りながら左右に「以前太上皇の側に侍っていたときに、太上皇が今日の宴を命じた。今日のわたくしが着ている服は、下賜された太上皇の脱いだ御衣だ。」と話したという。この日、基経が詠んだ応製詩は末句のところで御衣に言及したため、満坐の感動を呼び、涙を流した者もいた。太上皇が水尾山寺に臨幸した時の事であった。)

(『前賢故実』)