菅原文時

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すがわらの ふみとき


画題

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解説

前賢故実

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(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

世に菅三品と称する、道真の孫で、天慶五年対策に及第し、内記弁式部大輔を経、正四位下に進み文章博士となり、尾張権守を兼ねた、村上天皇の時、封事を上り、奢侈を禁じ、売官を停め遠人を懐けることを奏す、言甚だ剴功、応和中、天皇冷泉院に遊び、文人を召し、『花光水上浮』の題を賜ふ、文時之が序を作る、その一節に曰、『誰謂水無心、濃艶臨兮波変色、誰謂花不語、軽漾激兮影動唇』と、世伝へて之を称す、また一日群臣に命じ『宮鴬囀暁光』の詩を賦せしめらる、御製に曰く『露濃緩語園花底、月落高歌御柳陰』と、天皇親ら佳作と信じ給ひ、私に誇らせ給ふ、既にして文時詩を献じて曰く『西楼月落花間曲、中殿灯残竹裏声』と天皇以て絶作となし文時を召し其の優劣を問給ふ、曰く『聖作臣の及ぶ処にあらず』と、天皇なほ問はせ給ふこと数回、因て徐ろに奉答して曰く『聖作実は臣より下ること一等」と、天皇笑うて之を肯かせ給ふ、天元四年年八十四にして薨ず、源英明、源為憲、大江匡房等、皆文時に請うて其辞賦を改竄したといふ。  (大日本史)

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)