芳年

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天保10年(1839)の3月17日生まれ。本名は、『月岡』といった説もあれば『吉岡』といった説もあり、実際のところ今もそれがどちらであるのかは定かではない。

嘉永3年(1860)芳年が12歳のときに、『歌川国芳』の門に入り、国芳の弟子となる。第1作目は、嘉永6年(1853)、芳年が15歳の時に描かれた、『文治元年平家一門海中落入』である。今回の絵画の『和漢百物語』は、第1作目から12年後の慶応元年(1865)芳年27歳の時に製作されたものである。

芳年は、歌川国芳の弟子として、嘉永年間から活躍を始め、明治元年には、浮世絵の人気番付で第4位を占め、代表作『月百姿』を発表した明治18年には、第1位に躍進し、門弟80人を数える盛況であった。芳年自身の画系も、年方、清方、深水と現代へ続いていることもあって、かれの芸術は、その後も評価されてきたが、とはいっても、末期の浮世絵師であり、また、その個性の極度の特異性のために、正当に価値付けられる事がなかったのも事実である。

このように、芳年は最後の浮世絵師として名が通ることとなったが、明治24年(1891)発病し、翌年25年の6月9日にこの世を去る。



『最後の浮世絵師 月岡芳年展』 昭和51年9月23日 京都新聞社