興正菩薩

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こうしょうぼさつ


画題

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解説

画題辞典

興正菩薩、諱は叡尊、又思円上人ともいう。律宗西大寺中興の祖なり、大和の人、十一歳醍醐寺に入り、後西谷に往き、元仁元年高野山に上り、信敬に会し、後海龍王寺に住し、次いで嘉禎元年西大寺に移る。当時律学大に衰えしかば、之を嘆きて復興を図り、同志と共に大乗の三聚通受の法に依り自警受戒す、本朝菩薩戒行の初となす。爾来盛に戒を弘め、弘長二年鎌倉に抵り、又帰りて京都奈良の間に講経受戒に力む、是に於て戒学再び起り、亀山上皇に召されて菩陸大戒を授け、又続いて后妃公卿に之を授く。正応三年八月二十五日歳九十を以て西大寺に寂す。興正菩陸の号は正安二年閏七月後伏見天皇の勅によりて受くる所の号なり。

東京宝泉寺伊勢薪大仏寺に画像あり、国宝なり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

興正菩薩、諱は睿尊、思円上人と云ふ、姓は源氏、大和国箕田郷に生る、律宗西大寺中興の祖、建保五年東大寺で剃髪、醍醐寺に入り元仁元年の春には高野山に登つて教を受く、嘉禎元年春西大寺に移る、此時に当て律学大に衰ふ、睿尊是より先、その衰頽を嘆き、復興を図るの志あり、二年九月同志四人と共に大乗の三聚通交の法に依り自誓受戒す、即ち朔日近事戒、二日受勤策戒四日大苾芻戒を行ふ、本朝菩薩戒行の始めである、爾来盛に戒法を弘め四律五論、三大五部研究せざるなく、寛元三年和泉の家原寺に別受法を行ひ、又、法華寺に文篋沙弥尼戒を授け、建長元年法華寺に慈善等大比丘尼戒を授けた、茲に至て七衆皆備り、戒学再び興る、亀山上皇之を聞給ひ詔して宮中に召し菩薩大戎を受け給ふ、后妃公侯、戒を受くるもの多く、正応三年八月廿五日西大寺に入寂した、歳九十、後伏見天皇正安二年閏七月与正菩薩の号を贈らる。  (国史大辞典)

興正菩薩画蔵        東京宝泉寺蔵

同       (国宝)  伊勢新大仏寺蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)