羅馬使節

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ろうましせつ


画題

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解説

東洋画題綜覧

天正十年九州の大名大友宗麟、有馬晴信、大村純忠の三人が伊東義賢(教名マンシヨ)等を派遣したのがその一で、初め天正七年ポルトガルの宣教師ヴアリニヤーニが伝道視察のため来朝、三年の後帰国せんとした際、九州に於ける切支丹大名の有力者たる宗麟に使節派遣を勧告した、宗麟はこれに同意し、なほ有馬、大村二氏に説き義賢を正使に任じ、これに千々石清左衛門(教名ミゲル)と中浦某(教名ジユリアン)原某(教名マルチノ)の三人を副へて派遣することゝなつたが、義賢は当時十三歳の少年で、他の三人も同年輩のものであつた、一行はヴアリニヤーニに伴はれ天正十年一月廿八日長崎出帆、媽港、臥亜を経てアフリカ喜望峰を迂回、ポルトガルの首府リスボン、並にスペインの首都マドリツトを経由、日本出発後三年二箇月の後、ローマに着いた。着都の翌日一行は儀衛をととのへて法王庁に至つて法王に謁し三大名の書状を呈し、その使命を果した、爾後滞留ニケ月熱誠なる歓待を受けて退去、往路を逆行し九州に帰着したのは天正十八年七月であつた、慶長十八年伊逹政宗が支倉六右衛門を派遣したのがその第二である。  (大百科辞典)

羅馬使節を画いたものでは、昭和三年の日本美術院展覧会に前田青邨の大作がある。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)