紀長谷雄

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きの はせお


画題

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解説

前賢故実

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父親は貞範、かつて長谷寺で祈って長谷雄を生んだという。生まれてから賢くて機知に富み、童になると学問に志し、文章に長けていた。有名になる前のある日、諸学生が一緒に酒を飲み、詩を賦した時に、大蔵善行が長谷雄の作品について「詩の風骨をよく得ている」と誉め称えた。これにより長谷雄は次第に有名になり、菅原道真とも屡々詩文の唱和をしていた。宇多天皇は遣唐使を派遣しようとした際、道真を大使、長谷雄を副使に任命したが、唐の戦乱を聞き派遣を中止させた。延喜中、從三位、中納言にまで栄進。延喜十二年薨去、享年六十八歳。長谷雄の文章は言葉が麗しくて高尚であるため、帝が下す詔、勅、表、牋は大概長谷雄が手がけたものであった。道真が執政していた時、文章の作成が必要されると、いつも長谷雄が文案を作っていた。かつては宮殿での宴に侍り詩を賦した長谷雄は、その場で道真に手を取られて「元稹と白居易が生返っても、これ以上のものはないだろう。」と褒められた。島田忠臣も長谷雄の文章を絶賛していた。

山無隠()

幽人帰德遂難逋(隠士が遂に朝廷に仕えることを避けられなく) 抽卻蒿簪別草庵(草の簪を抜取り草庵に別れを告げた) 虚澗有声寒溜咽(細い山の渓流から音が聞こえてきて、冷たい水流が悲しんでいるようだ) 故山無主晩雲孤(幽人の住んでいた山は主人を失って、夕方に訪ねてきた雲も孤独に見えた) 青郊不顧烟花富(郊外の野原に春の美しい景色を顧みず) 絳闕初生羽翼扶(朝廷の補佐役として即位した天子に仕える) 巣許若能逢此日(巣父と許由がこのような日に出逢えば) 何因終作潁陽夫(ずっと潁水の北で暮す理由がなかったろう)

(『前賢故実』)