紀夏井

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きの なつい


画題

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解説

前賢故実

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美濃守善岑の子。立派な体格を持ち、眉目秀麗で、文才があった。かつては、召されて文徳天皇に謁見した際、粗末な衣服と靴を身につけていたため、周囲に笑われたことがあった。文徳天皇はその時周囲に「これは疲駿だ」と言い、その後夏井を寵愛していた。はじめは小野篁について書道を習い、篁から「紀三郎は書聖と言えるだろう」と褒められた。讃岐守を務めていた時、政治と教化に力を入れたため、任期を満了すると、百姓たちが朝廷に参り夏井の留任を願ったのだ。そして、二年ほど留任することになった。夏井の努力によって讃岐国は、人口が増え、豊かになり、郡や邑が凶年に備えて多くの穀倉を造った。夏井は讃岐国を去る時、たくさんの餞別を贈られたが、受け取ることがなかった。その後、肥後守を務めることになった。清和天皇貞観八年、応天門の変で有罪となった伴善男に連座して、夏井は土佐への配流になった。肥後国を離れる時に、民衆が夏井が行く道を塞ぎ、父母を亡くしたように号泣した。夏井は医術にも精通し、土佐にいる時に自ら山沢で薬を採り、多くの民を救った。後年、母を亡くした夏井は、母への追慕が欠かさずに行われ、三年の喪を服した。

(『前賢故実』)