石頭和尚

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せきとうおしょう


画題

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解説

画題辞典

石頭和尚は希遷禅師の称なり、端州高要の人、唐代の禅僧なり、希遷幼にして郷民の淫祀し犠牲するを嘆し、往いて叢祀を毀ち献牛を奪ひたり、後曹渓に往き恵能禅師の下に参せしが、恵能寂後、青原静居寺に行思禅師に参ず、行思問ふ爾何方より来る、希遷曰く曹渓より来る、行思曰く何故に曹渓を去つて此に来る、希遷曰く、我若し曹渓に到らざれば如何ぞ失はざるを知るを得んと、却つて問ふ恵能大師は和尚を知るやと、行思曰く汝は今吾を知るや、希遷曰く識るこ如何ぞ識り得んや、行思遂に衆角多しと雖も一麟にして足れりとなし、法を希遷に授けたりという、天宝の初め衡山の南岳寺に赴き、寺の東方に台の如き石あるを見て、其の上に庵を結びて住す、之れが為めに人呼んで石頭和尚となす、広徳二年梁端に下り盛に宗風を揚ぐ、貞元六年十二月二十五日九十一歳を以て寂す、無際大師の謚号あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

石頭和尚は支那の高僧、端州高要の人、幼にして郷民の淫祀を嘆き、往々その祠を毀ち犠牲の献牛を奪ふ、後、曹渓に赴き恵能禅師の下に参じたが、恵能の入寂後は青原静居寺の行思禅師に参した、行思禅師曰く、何故に曹渓を去つて此に来るかと、石頭答て曰ふ、我若し曹渓に到らざれば如何ぞ失はざるを得んと、却つて問ふ、恵能大師は和尚を知るやと、行思曰く、汝は今我を知るや、石頭曰く識るものは如何ぞ識り得んや、行思遂に法を石頭に授けたといふ、天宝の初め衡山の南岳寺に赴き、寺の東方に台の如き石あるを見て、その上に庵を結び住した、これから人呼んで石頭和尚といふ、広徳二年梁端に下り、貞元六年十二月二十五日九十一歳を以て入寂した、無際大師と諡した。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)