白隠禅師

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はくいんぜんじ


画題

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解説

画題辞典

白隠は近世に於ける本朝有名の禅僧なり。俗姓は長澤、慧鶴又鵠林と号す。駿河の人、歳十五にして出家し、沼津大聖寺息道和尚に侍す。尋いで美濃に遊び、ス南禅、万休大巧諸山に歴参し、更に備後に赴き越後に転じ會々慧端禅師の円弟宗格と會し、共に信濃に赴きて慧端に見ゆ。商量数番、甫めて明眼の宗師を得たるを喜び錫を正受庵に掛け、晨昏参叩、臨済の正宗を究めて法燈を継ぐ。時に歳二十九なり。享保元年駿河原の松蔭寺住し、盛に宗風を振起し蔚然東海法窟となる。明年京都に入りて妙心寺の第一座となり、道声遠近に振ひ雲水四方より来りて之に参す。宝暦八年帰依の道俗。伊豆に瀧澤寺を創め請して開山となす。明和の初め大應録を提唱するや四来の徒与り聴くもの七百人に及ぶといふ。同五年十二月十一日松蔭寺に寂す。年八十四、翌年神機獨妙禅師、明治十七年正宗国師と勅諡せらる。隻手の声の公案は白隠得意の公案として最も有名なるものなり。

(『画題辞典』斎藤隆三)