王陽明

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おうようめい


画題

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解説

画題辞典

王陽明、名は守仁、字は伯安、陽明山人と號す。明の浙江餘姚の人、初め郷士に擧げられ、孝宗帝の時進士となり、武帝の時、正徳元年上疏して劉瑾に忤ひ、貴州龍城驛亟に■せらる、途次刺客に窺はれしも、佯り死して辛うじて免る、己にして再び右僉都御史に擢でられ、南中の盗賊を平げ、続いて寧王農宸濠の反を討じて之を擒にし、武功赫耀おり、然れど嬖臣の妨ぐる所となりて賞せられず、世宗の印位の初め新建伯に封ぜられしも辞し、特に光禄太夫に拝し、嘉靖年中、円州土酋廬蘇王受の乱を討じ、八年二月年五十七を以て安南に卒す。守仁、年少より學を好みて日々端坐して五経を讀み、又佛老二氏の學を修むる数年.龍城に謫せらるゝに及び、窮荒書無く月に旧聞を繹ね、忽ちにして格物致知は諸を心に求むべく事物に求むべからざるを悟り一流を創む、印ち陽明學なり、又王學といふ、故に其教は専ら良知を致すを主となす、弟子甚だ多く伝統今日に及びて尚盛なり、文正公と諡らる、画かるゝ所亦多し。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

王陽明は陽明学派の始祖、名は守仁、字は伯安、浙江省紹興府余姚県の人、明の憲宗の成化八年生る、幼より豪邁不羈、その生涯は極めて波瀾重畳たるものがある、陽明の親友湛甘泉は曰く『陽明初は任侠に溺れ、再び騎射に溺れ、三たび詞章に溺れ、四たび神仙に溺れ、五たび仏氏に溺れ、正徳元年丙寅始て正に聖賢の学に帰す』と、これを陽明の五溺一帰正といふ、十七歳にして妻を迎へ三十前後には咳嗽の疾を患へ官職を辞して陽明洞に入り神仙養生法を修行し、これから人呼んで陽明先生と云ふ、或時は時事を建白して忌諱に触れ流謫の身となり、時に刺客に襲はれて佯死して免れ、南中の賊を平げ赫々たる武勲を建てながら嬖臣の為め妨げらる、然も毅然として大をなすものは、陽明学の創始にある、即ち『致良知』これである、嘉靖七年十一月廿九日卒す年五十七、朝廷新建侯を贈り文成と諡す、

『晩咲堂画譜』にその画像を載する外、諸家の画くところ少くない。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)