物部弓削守屋

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もののべゆげの もりや


画題

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解説

前賢故実

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大連を勤めていた。剛直な性格で、群書に博く通じていた。敏達天皇十三年、大臣蘇我馬子が仏殿を造り、百済から得た仏像二体を安置した。これより仏陀の教えは少し広められた。敏達天皇十四年、諸国に疫病が流行り、日が経つほど情況が酷くなり、死者が非常に多かった。それで、守屋は奏上し、仏教寺院を悉く焼払って、金石の仏像を難波の各入江に捨てるようと求めた。用明天皇二年、帝が病気にかかり、群臣が仏に祈祷しようと議論することになった。守屋と中臣勝海は「どうして我が国の神に背いて他国の神を敬おうか。できません。」と反対した。しかし、結局帝の詔によって僧侶を宮中に来させた。まもなくして帝は崩御した。守屋は皇弟の穴穂部皇子を即位させようとしたが、馬子は穴穂部皇子を殺した。そして馬子は兵を構えて守屋を攻めるようになった。馬子は仏教を信仰しているため、厩戸皇子と仲がよかった。二人は共謀して守屋を攻め殺した。それから本邦の古典籍がほとんど散佚してしまった。

(『前賢故実』)