熊谷直実

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くまがい なおざね


画題

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解説

前賢故実

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(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

武将、二郎と称す、直貞の子、幼にして恬む所を失ひ兄直正と姨夫久下直光の家に育はる、直実慷慨にして剛直、源頼朝兵を起すや直実は大庭景親等と共に之れを攻め後、頼朝に降る、頼朝佐竹秀義を攻むるに当り直実は平山季重等と共に之に赴き先登し多くの首を挙ぐ、頼朝之を賞して地頭職たらしめた、寿永三年義経に従つて木曽義仲を攻め大功あり、一の谷の役では一子直家と共に西門に血戦し平氏敗るゝや之を逐ひ無官大夫敦盛を斬る、後ち薙髪して蓮生坊と改め承元二年九月十四日没した。

無官大夫敦盛は、紺錦直垂に、萌黄匂の鎧に、白星の甲著て滋籐弓に十八指たる護田鳥尾の矢、鴇毛の馬に乗給、只一騎新中納言の乗給ぬる舟を志て一町計遊がせて、浮ぬ沈ぬ漂給ふ、武蔵国住人熊谷次郎直実は、哀よき敵に組ばやと渚に立て東西伺居たる処に、是を見附て馬を海にざぶと打入。大将軍とこそ奉見、まさなくも海へは入せ給ふ者哉返給ヘや/\角申すは日本第一の剛者、熊谷次郎直実と云ければ敦盛何とか思はれけん、馬の鼻を引返し渚へ向てぞ遊がせたる、馬の足立程に成ければ弓矢をば抛捨て、太刀を抜額にあて、をめきて上給けると、熊谷待受て上もたてず、水鞠さと蹴させつゝ馬と馬とを馳並て取組、浪打際にどうと落ち、上に成下に成二度三度は転たりけれ共、大夫は幼若也、熊谷は古兵也ければ、遂に上に成、左右の膝を以て胄の袖をむずと押たれば、大夫少も働給はず、熊谷は腰の刀を抜出し既に頸をかゝんと内甲を見ければ、十五六計の若上臈、薄気粧に金黒也、にこと笑つて見え給ふ、熊谷は穴無慙や、弓矢取身は何やらん、是程若く厳〈うつくし〉き上臈に、いづこに刀を立べきぞと心弱ぞ思ける、抑誰の御子にて渡らせ給ふぞと問ければ、只とく切とぞ宣ける、奉斬て雑人の中に棄置進せんも無便侍りうきふしも知ぬ東国の夷下臈に逢て名乗るまじと被思召か、それも理に侍れ共、存ずる旨有て申也と云、大夫思はれけるは、名乗たり共不名乗とも非可遁、但存ずる旨とは勲功の賞を申さん為にこそ有らめ、組も切るゝも先世の契、讐をば恩で報也、さあらば名乗んと思ひつゝ存る旨の有なれば聞するぞ、是は故太政入道の弟に修理大夫経盛と云人の末の子、未無官なれば無官大夫敦盛とて生年十六に成也と宣けり、熊谷涙をはら/\と流けり、穴心憂の御事や、さては小次郎と同年にや、実に左程ぞ御座らん、岩木をわけぬ心にも子の悲みは類なし、況や是程わりなく厳しき人を奉失て父母の悶こがれ給はん事の哀さよ、中にも小次郎と同年に成給なる糸惜さよ奉助ばや又御心も猛人にて座しけり、日本第一の剛者と名乗るに、落武者の身として此年の若に返合給へるも、大将軍と覚たり、是は公軍也穴惜や如何せんと思ひ煩て、暫し押へて案じけるに、前にも後にも組んで落、思々に分捕しける間に熊谷こそ一谷にて現に組たりし敵を逃して人にとられたりといはれん事、子孫に伝て弓矢の名を折べしと思返て申けるはよにも助進せばやと存侍れ共、源氏陸に充満たり、迚も遁給べき御身ならず、御菩提をば直実能々訪奉べし、草の陰にて御覧ぜよ疎略努々〈ゆめ/\〉候まじとて目を塞歯をくひあはせて涙を流し其頸を搔落す無慙と云も愚也。  (源平盛衰記)

熊谷の画像に高野山五大院及京都金戒光明寺にあり、なほ盛衰記等に取材したものでは、島田墨仙に『法然上人と蓮生坊』の作があり磯田長秋に『熊谷父子』(第三回新文展出品)がある。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)