源融

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平安前期の歌人。嵯峨(さが)天皇の皇子。838年(承和5)臣籍に下り、872年(貞観14)左大臣に上り、左大臣在職24年。生来、風流を好み、鴨 (かも)川のほとり東六条に四町四方を占める大邸宅河原院(かわらのいん)を営んだことから、河原左大臣とよばれた。奥州塩竈(しおがま)に模した河原院 の名園は文人貴公子の社交場となったが、死後は荒廃した模様である。この河原院と融の大臣を題材とした夢幻能に『融』がある。勅撰(ちょくせん)所載歌は 『古今集』以下四首。  

 みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに

[島田良二]


『融』

能の曲目。五番目物。五流現行曲。世阿弥(ぜあみ)の名作。嵯峨(さが)天皇の子息源融(とおる)が京都に豪奢(ごうしゃ)な邸宅を営み、そこに歌枕(う たまくら)で有名な陸奥(みちのく)の塩釜(しおがま)の景色をそのままにつくり、海水を運ばせて塩焼く風情を楽しんだことは『伊勢(いせ)物語』にもみ える。『古今集』には、その壮大な風雅も廃墟(はいきょ)となったむなしさを、紀貫之(きのつらゆき)が「君まさで烟(けむり)絶えにし塩がまの浦さびし くも見えわたるかな」と詠じている。  東国の僧(ワキ)が都に上り、六条河原の院に休んでいると、担桶(たご)を担いだ潮汲(しおく)みの老人 (前シテ)が登場し、ここが融大臣(とおるのおとど)の風流の跡であることを語り、貫之の和歌を引き、懐旧の涙にむせぶが、旅人に四方の名所の眺望を教 え、満月とともに潮を汲む態で消え去る。僧の夢のなかに、融の亡霊(後(のち)シテ)はありし日の貴族の装いでふたたび現れる。月の美をさまざまに語り舞 いつつ、夜も明け方になると、彼はまた月の世界へと帰っていく。日本的な数寄(すき)の世界の極致、それも荒れ果てた思い出の跡からの栄華の幻想という前 段と、月の美への回帰という視点で描いた後段とがみごとに対比され、詩趣豊かな能である。流れるような舞のおもしろさを強調した、さまざまの演出が各流に ある。世阿弥以前は、源融が幽鬼の姿で登場する荒々しい能であったらしい。

[増田正造]


<引用>

日本大百科全書(ニッポニカ)http://www.jkn21.com/body/display/ 閲覧日2010/09/29みなもとの とおる


画題

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解説

前賢故実

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嵯峨天皇の皇子。四代の天皇に仕え、官爵が貴顕であった。山水を好む方で、六条河原院を造る際、園内に池を掘り、人に命じて攝津より海の水を運んできて池に流し込んだ。それから池畔で竃を造り、海水を炊き水蒸気が昇っていくようにして、陸奥の海辺の景色を再現したという。また、嵯峨で栖霞観を造営、一人で楽しんでのんびりしていた。河原左大臣と呼ばれていた。寛平七年薨去、享年七十四歳。

五節のあしたにかんざしの玉のおちたりけるを見みて、たがならんととぶらひてよめる

ぬしやたれ とへどしら玉 いはなくに さらばなべてや あはれとおもはん

(『前賢故実』)