源為朝

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みなもとのためとも


画題

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解説

(分類:武者)

前賢故実

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(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

鎮西八郎と呼ぶ、為義の八子、母は江口の遊女、幼時から勇を好み人を凌ぎ十三歳の時為義その晦ゆべからざるを知り鎮西に逐ふ、為朝即ち豊後に居り、鎮西八郎と称しまた自ら九州総追捕使と号して九州を従へんとした、菊池原田の諸族之を拒んだので為朝は岳父平忠国を嚮導として大小二十余戦、悉く九州を掠略した、時に年僅かに十五、国を挙げてその不法を訴へて来るので朝廷為義に命じて之を召さしめたが応ぜぬので為義は遂に官を解かるゝに至る、為朝遥に之を聞て驚き我が為め父の官を解かる、速に上洛して罪を謝さうと、驍勇のもの廿八人を率ゐて京師に至るや、間もなく保元の乱が起つた、為朝即ち父為義に従つて白河殿に詣り軍議に参し夜襲の策を建言したが藤原頼長之を拒んで容れず、既にして敵兵迫る、為朝よく戦つたが味方敗れ、遂に近江の輪田に匿れ、九州に落ちやうとしたが清盛の臣平家貞に捕へられた、廷議その武勇を惜み死一等を減じて伊豆大島に流した、為朝大島に至るや瞬く間に附近の群島を従へ租税を奪ふ、旧臣伝へ聞いて来り属するもの漸く多きを加へた、朝廷遂に工藤茂光をして之を討たしむ、茂光戦艦を以て大島を襲ふ、為朝奮戦したが遂に衆寡敵せず戦死した、年三十二、首を京師に送つて之を梟した、為朝膂力飽くまで強く殊に射芸に長じてゐた  (大日本史)

一説には為朝大島に死せず、免れて琉球に到つたと、真偽詳かでない。

為朝の大島にあつて、寄せ来る大船を一矢を以て覆す物語は俗画としてよく画かる。

名作として伝へらるゝものに、小堀鞆音筆『武士』がある、為朝を画いたものといふ。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)