洞山禅師

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どうざんぜんじ


画題

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解説

画題辞典

洞山、良价という、曹洞宗の祖なり、支那会稽の人、姓は兪氏、幼にして般若心経を讀み、無眼耳鼻舌身意の所に至り、手を以て面を擦り、吾れ眼耳等あり、何故に経に無というやと問うて師を驚かしたりという、二十一歳嵩山に就きて戒を受けて諸方に遊歴し、南泉に到り馬祖に見え、又潙山に参し、雲巖曇晟に法を受く、特に曇晟に無情の説法に就きて間うて語る所ありありたりという、唐大中の末、新豊山に學徒を匡し、後瑞州の洞山に化を揚げ、道大に振ひ、法を曹山本寂に付し、曇晟より得たる宝鏡三昧及五位の顕訣を授く、學徒に接するに好んで棒を食はせしより世に洞山の三十棒の名あり、咸通十年三月八日寂す、壽六十三、勅して悟本大師という。

岳翁筆洞山禅師像(岩崎男爵所蔵)、伝馬遠筆洞山渡河悟道図(末松子爵旧蔵)

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

洞山禅師は良价といふ、曹洞宗の祖、会稽の人で姓は兪氏、幼時般若経を読み、無眼耳鼻舌身意の所に至り、手を以て面を擦り、吾れ眼耳あり何故に経に無いかと問うて師を驚かしたといふ、廿一歳の時嵩山に戒を受けて諸方を遊歴し、南泉馬祖、潙山等に謁し、雲寂曇成に法を受け、大唐中の末、新豊山に学徒を匡し、後瑞州の洞山に入り曇晟から得た宝鏡三昧及五位の顕訣を授け、学徒に接するに及びよく三十棒を食はせたので洞山の三十棒と称せられた、咸道十年三月八日入寂、寿六十三、勅して悟本大師といふ。

筠州洞山良价禅師、会稽人也、姓兪氏云々、師門雲巌和尚百年後、忽有之問還貌得師真如何、抵対雲巌曰、但向伊道即這箇是師良久、雲巌曰、承当這箇事大須審細、師猶渉疑、後因過水睹大悟、前旨因有一偈曰、切忌従佗覓迢々与我疎、我今独自往処々得逢渠、渠今正是我々令不是渠、応須恁麼会、方得契如何。  (伝灯録十四)

洞山禅師を画ける作

岳翁筆   (重美)       岩崎男爵家蔵

伝馬遠筆  『洞山渡河悟道図』  末松子爵家旧蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)