法然上人

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ほうねんしょうにん


画題

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解説

画題辞典

法然上人は浄土宗の開祖なり、名は源空、法然房と號す、父は美作国久米押領使漆間時国、長承二年四月七日久米の南条稻岡に生る、幼名は勢至丸、九歳にして父を喪ひ、十五歳にして比叡山の源光に従ひて薙髪し、次いで功徳院の皇円に師事し台教を學び更に黒谷の叡空に就いて密乗及大乗律を禀け、更に京都奈良の間に往来して究むる所あり、四十三歳にして慧心の往生要集、善導の散善義を讀みて遂に浄土教に歸し、洛東吉水に庵居して、盛に念仏を唱ふ、高倉、後白河、後鳥羽諸帝の崇信浅からず、已にして元久元年叡山の徒専修念仏の停止を訴ふることあり、上人、起請文七条を作り、僅にその怒を解く、建久二年又事を以て讃岐に謫せらる、居ること五年化多し、上人曰く我れ謫遷に因らずんぼ曷そ化の海濱に及ぶを得んやと、建暦二年京に歸り、、二年二月十五日、八十歳を以て大谷の禪房に寂す、慧光菩薩、通明国師、円光大師、慈教大師等は後世の勅諡號なり。

法然上人行状絵巻四十八巻(大和當摩寺奥院所蔵)

法然上人絵伝四十八巻(京都知恩院所蔵)

法然上人絵伝二巻(東京増上寺所蔵)

法然上人像(常陸常禪寺所蔵)

法然上人絵伝二幅(伊勢西導寺所蔵)

法然上人絵伝三幅(参河妙源寺所蔵)

右何れも国宝なり、この他

伝勝法房筆法然上人像(京都金戒光明寺所蔵)

法然上人絵伝一幅(徳川伯爵家所蔵)

法然上人像(京都妙法院所蔵)

法然上人絵伝(西脇済三郎氏所蔵)

伝土佐将監筆法然上人絵伝(常陸無両壽寺蔵)

法然上人絵伝(京都百万遍寺所蔵)

京都知恩院に伝はるものと大和當麻寺に伝はるものとは何つれも四十八巻伝にして或は法然上人行状図絵とも稱す、錐倉時代絵巻中の最大作と稱すべく、絵は知恩院のを土佐吉光一筆、當麻寺のを土佐光信一筆と伝ふるものもあれども、或は土佐吉光、土佐邦隆、姉小路長隆、長章及土佐光顯、飛騨守惟久六人の筆とし、詞書も後伏見院、世尊寺行尹卿尊円法親王その他数筆としてあるものあり、絵を吉光邦隆以下六人の筆とするには年代に合せざる所あり、遽に倍しかたきも一人の筆にあらざら事は疑ふべからざるが如し、増上寺、金戒光明寺、百万遍寺所伝のものは何づれも残缺なり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

浄土宗の開祖、名は源空、童名を勢至丸、法然は房号である、崇徳天皇の長承二年四月七日を以て美作国久米の南条稲岡の荘に生れた。父は久米押領使漆間時国、母は秦氏、年甫めて九歳、その父故あつて人のために殺されたので、その臨終の遺命に感じて出家す、十三歳にして比叡山に登り、源光に従ひ十五歳にして剃髪受戒し、大に天台その他の教義を研鎖し十八歳にして黒谷に退隠し慈眼房叡空の門下に入つた、法然房の号は実に叡空の授くる所、これより専ら経論の研究につとめ五千巻の三蔵を通読すること五回、善導大師の注疏を反覆講読すること八回の多きに及んだ、或時は南都に歴遊して法相、三論、真言、華厳の教義を当時の碩徳に就きて攻究し、智慧第一ら法然房と称せらるゝに至り、上人また源信僧都の『往生要集』善導大師の『散善義』を読み、遂に念仏門の蘊義を達観し、何れの時如何なる機に於ても易く安心立命し大悟得証するは此の念仏の一行あるのみとの信念を起し従来の諸行を棄てゝ念仏門に帰し、一日六万遍の称名念仏を修するを宗是とするの一宗を開き浄土宗と称するに至つた、実に皇紀一八三五年高倉天皇の安元五年のことで、上人将に四十三歳の時である、爾後法を上人に聞くもの日に多きを加へ上は主上を始め群臣百官みな此の教を信じ、各宗の高徳また上人の門を叩いて教を乞うた、然るに南都北嶺の僧徒、その勢力を憎み遂に上人をして流罪の不幸に逢はしめた。後、勅免を蒙り帰京したが建暦二年二月、八十歳にして洛東大谷の禅房に入寂、元禄十年勅して円光大師の諡号を賜ふ。有名な『選択集』は関白藤原兼実の請に応じて選述されたものである。  (仏教辞林)

法然上人の一代を画いた絵巻や像には名品が多い、左に列挙する。

土佐吉光筆  『法然上人行状絵巻』四十八巻  大和当麻寺奥院蔵

同      『法然上人絵伝』二巻      東京増上寺蔵

伝土佐邦隆長隆吉光長章光顕惟久合作  『法然上人絵伝』四十八巻  京都知恩院蔵

法然上人絵伝二幅               伊勢西導寺蔵

同     三幅               三河妙源寺蔵

法然上人像 (以上国宝)           常陸常福寺蔵

伝勝法房筆  法然上人像           京都金戒光明寺蔵

法然上人絵伝一幅               徳川伯爵家蔵

法然上人像 一幅               京都妙法院蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)