武田信玄

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武田春信(たけだ はるのぶ)


大永元年11月3日(1521.12.1)〜天正元年4月12日(1573.5.13)


戦国大名甲斐武田家当主。父は武田信虎、母は大井信達の娘。今川義元の斡旋により、京都より公家三条公頼の娘を娶り、天文十年六月、父を駿河へ追放し家督を継いだ。 永禄二年二月頃出家して信玄・法性院・徳栄軒と称し、元亀三年僧正の位になる。家督を継いだ翌年に同盟者の諏訪頼重を滅亡させ、以後連年に渡って信濃に出兵して小笠原氏や村上氏などの大名を追放し、弘治元年八月の木曾氏の臣従をもって信濃の大半を占領した。この頃より、長尾景虎(上杉謙信)との対戦が始まり永禄四年九月には、川中島で決戦が行なわれた。


参考文献『戦国人名辞典』戦国人名辞典編集委員会 吉川弘文館 2006年1月10日たけだしんげん


画題

画像(Open)


解説

(分類:武者)

東洋画題綜覧

戦国時代の武将、幼名を太郎といふ、大永元年辛巳甲府躑躅ケ崎第に生る、天文五年正月元服し従五位大膳大夫兼信濃守に任ぜられ、将軍義晴の偏諱を得て晴信といふ、永禄二年から法号を信玄と称す、十年六月家を嗣ぎ先づ信濃を略せんとして諏訪氏を滅し、小笠原氏に迫り村上義清を追ひ、尋で木曽を略し川中島に上杉謙信と戦ふ事数度、その上杉氏と戦ふに当り、今川義元と会して盟を重ね、北条氏と和親を結び、かくて専ら謙信に当り、共に西上野に兵を出し威を振つた、然るに義元は桶狭間に於て織田信長の為め斃さるゝや、嗣子氏真の暗弱に乗じ、徳川家康は三河に起り遠江を侵したので、信玄亦駿河に兵を出して之を略した、是に於て北条氏も信玄を敵とするに至り、信玄ほ上杉徳川今川北条の四氏を向ふに廻して戦ふこととなつた、十二年十月親ら小田原城に迫つたが氏康等戦はなかつたので甲斐に帰らうとし、途中北条氏照同氏邦に出逢ひ之を三増峠に破り、三方ケ原では徳川織田両氏と戦ひ、天正元年正月十一日には三河野田城を攻め、二月十日之を陥れたが、此の時信玄既に病を獲てゐたので、鳳来寺に病を養ひ、病漸く進まんとしたので甲府に帰らうとして信濃の駒場に歿した、歳五十三。

武田信玄の画像は高野山成慶院にあるもの世に知られ、武州金久保陽雲寺にも信玄夫妻の画像を伝へ、近くは帝展第十一回に小堀安雄筆『甲斐勇将』の作があり。その温泉に病を養ふ図は池沢青峰筆『湯治』で、新帝展第一回の出品である。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)