楠木正行

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くすのきまさつら


画題

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解説

前賢故実

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(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

正成の長子、正儀の兄、正成戦死の時、年猶幼く、常に父の遺訓を奉じて南朝の為に尽し、且つ父の仇を報ぜん事を念じ、其の嬉戯に際しても群童を仆して敵を斬ると為し、竹馬を走らして足利尊氏を追ふといふ、長ずるに及び帯刀、検非違使左衛門尉となり河内守を兼ぬ、既にして後醍醐天皇の華山院を出で内山に幸するや和田次郎等とこれに赴く、後村上天皇践祚のはじめ、屡々兵を住吉附近に出し以て敵軍に挑む、正平二年兵を発して紀伊河内の諸城を攻め、頻に細川顕氏及び山名時氏等の兵を敗る、尊氏これを憂ひ高師直及其弟師泰に兵六万を授けて正行を討たしめた、茲に於て正行弟正時和田賢秀等百四十余人を率ゐて行在に至り竜顔を拝して御暇を乞ひ、尋で後醍醸天皇の廟に詣で、一族郎党の姓氏を如意輪堂の壁に署し、歌一首を題す。

かへらじとかねておもへば梓弓なき数に入る名をぞとゞむる

と、各々髪を截りて仏殿に納め死を決して出づ、天皇、四条中納言をして之を援けしむ、明年正月師直河内に入り兵を分ち生駒山の南及び飯森山、外山、四条畷等四ケ所に陣す、隆資三千を率ゐ陽に飯森山に向ふ形勢を示して敵を牽制し正行は三千を以て四条畷より進む、飯森山の敵之を望み兵を分ちて遮撃す、正行先鋒を以て之を敗り、後軍四条畷の敵と戦ふ、時に飯森山生駒山の敵前後奄ひ来り後軍為めに敗走す、正行願みず、兵三百を以て進み大に師直の軍を敗り、その幕下に迫る、上山高元偽つて師直と称し陣を冒して戦死した、兜を見れば師直の紋がある、正行大に喜び首を空中に擲ち手玉に取つて居たが、その偽首を知るや怒て地に擲ち更に奮戦して此日巳より申に至り戦凡そ三十余合、正行の従卒殆んど尽きた、即ち残余の五十余人と盾を負ひ佯り走り以て師直を誘つたが敵の覚る処となる、正行引返し戦ふこと十数合、敵五十余級を斬り、再び進んで師直の陣営に迫つたが既に正行兄弟身に数十の箭傷を負つて居たので、敵の手に懸るなと兄弟刺し違へて斃る、正行時に年二十三。  (国史大辞典)

忠臣正行の壮烈なる最期、如意輪堂に於ける辞世、渡辺橋に敵兵を救ふ仁慈、皆合戦絵の好題である、その如意輪堂の一節を『太平記』から引く。

主上則ち南殿の御簾を高く捲せて、玉顔殊に麗しく諸卒を照臨ありて正行を近く召して以前両度の戦に勝つ事を得て、敵軍に気を屈せしむ、叡慮先づ憤を慰する条、累代の武功返す/\も神妙なり、大敵今勢を尽して向ふなれば、今度の合戦天下の安否たるベし、進退度に当り、反化機に応ずる事は勇士の心とする処なれば、今度の合戦手を下すべきにあらずといへども進むべきを知りて進むは時を失はざらんがためなり、退くべきを知りて退くは後を全うせんがためなり、朕汝を以て股肱とす、慎で命を全ふすべしと仰出されければ、正行頭を地につけて、兎角の勅答に及ばず、只是を最期の参内なりと思ひ定めて退出す、正行、正時、和田新発意、舎弟新兵衛、同紀六左衛門子息二人、野田四郎子息二人、楠将監、西河、子息関地良円以下今度の軍に一足もひかず、一処にて討死せんと約束したりける兵、百四十三人、先皇の御廟に参りて今度の軍難儀ならば、討死仕るべき暇を申して如意輪堂の壁板に各名字を過去帳に書き連ねて、その奥に

返らじとかねて思へばあづさ弓なき数に入る名をぞとゞむる

と一首の歌を書き留め、逆修のためと思しくて、各鬢髪を切りて仏殿に投げ入れ其日吉野を打ち出でゝ敵陣へと向ひける。

小楠公を画けるもの少からず、訥言、容斎をはじめ多く画く、最近の作に左の如きがある。

松本楓湖筆  『小楠公四条畷奮戦』  第三回文展出品

小堀鞆音筆  『正行救敵兵』     第八回文展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)