楠公

提供: ArtWiki
ナビゲーションに移動 検索に移動

なんこう


画題

画像(Open)


解説

画題辞典

楠公は楠正成の称なり、正成小字は多聞丸、河内の人なり、元弘元年、後醍醐天皇北条氏の討伐を図り、事成らずして兵を避けて笠置に幸し、四方勤王の士を召すや、一夜夢に紫宸殿前一大樹あり、南枝最も榮え、樹下南面の玉座あり、二童子来りて此に天皇を迎ふると見、覺めて卜して楠氏あるを知り、召見して天下の事を托せらる、是より正成城を赤坂に築きて敵の大軍を支へ、更に金剛山に拠り千剣破に城き、関東の大兵を拒ぎ、持久の計をなし、以て勤王軍の為めに重きを為す、已にして建武中興の業成り、正成功を以て検非違使左衛門尉兼河内守となり、摂河泉三国の守護を授けらる、幾くもなくして足利尊氏叛し、一たび京都に敗れて西国に走りしも、やがて延元元年西国の大兵を以て海陸並進して京畿に逼る、正成策を献じ、車駕を叡山に幸し、賊を縦ちて京師に入れ、而して後糧道を絶ちて之を破らんと計る、朝議用いず、出でて拒がしむ、正成即ち必死を期し、櫻井駅に到りて子正行を召し、之に伝来の一刀を授け、後年勤王に尽くすべきことを誡めて、強いて河内に帰らしめ、進んで湊川に陣し、尊氏の陸軍に当り、更に直義が牙営を衝き、縦横奮撃、士卒殲尽し、身亦十餘創を蒙り退いて民家に入り、七生人間に生れて賊徒を滅さんと唱へ、弟正季と交刺して死す、実に本朝忠臣の亀鑑とする所にして、水戸光圀はその遺跡に碑を建て、鳴呼忠臣楠子之墓といい明治天皇は忠節を嘉みして従一位を追贈せらる、桜井駅父子訣別は歴史画の好題目たり、その像亦図せらるる所多し。

朱舜水賛狩野探幽筆楠公訣別図(前田侯爵所蔵)、

狩野常信筆藤房卿双幅(備前池田侯爵所蔵)、

渡辺崋山筆楠公像(静岡小林氏所蔵)、

岡本善悦筆楠公像(京都田中勘蔵氏所蔵)、

小田海僊筆楠公像(京都小石氏所蔵)

その他、近年にては、菊池容斎、松本楓湖、竹内栖鳳筆の図あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

くすのきまさしげ「楠木正成」公の略称、その項を見よ。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)