楊岐禪師

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ようぎぜんし


画題

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解説

画題辞典

楊岐禪師は支那袁州宜春の人、名は方會、宋代の禪僧なり、幼にして聰敏、冠するに及び筆硯に従ふを厭ひ、名を商税に托し、課最を掌りしが、罰を受くるに及び、遁れて瑞州の九峰山に遊ぶ、然るに九峰の山色洸として昔日に変らざるものありしより、途に落飾して止まり、法を聞き経を讀みて心に融會したり、時に慈明和尚の石霜寺に移るに随ひて監寺となる、補佐久うして未だ究明する所あらず、屢々参して問ふ、慈明多忙に托して説かず、時に慈明に老母あり、寺に近く住す、慈明毎日往きて慰むるを例とす、一日大に雨りし時、方會その途に伏して慈明の來るを待つ、已にして抵れば直に其手を執り、今日須らく説くべし、説かざれば和尚を打つべしと詰る、慈明答ふ、監寺是般の事を知らば便ち休せよ、と言未だ終らざるに玄旨を領するを得、泥路に附して禮し、又起きて、狭路に相逢ふ時如何と問ふ、慈明曰く汝は且つ軃避せよ、我も去らん那裡に去れと、それより方會は慈明の出づることを未だ遠からざるを窺ひ、必ず晩しと雖も鼓を鳴して學徒を集めければ、慈明歸り怒り責めて曰く、何をか為す、方會答へていふ、晩参と、是れ後世叢林晩参の初なりといふ、後宜春より迎へられ楊岐寺に住す、然るに九峯の長老勤公未だ方會の大悟せるを知らず、州郡の與望に背かんことを憂ひ、方會と問答したるより、其名遠く聞え四方に重んぜらるゝに至りたり、後更に潭州雲蓋山海會寺に移りしが、二居共に法筵盛なり、その間風特色あり、學者之を楊岐宗と呼ぶ、曾つて自賛を頌す、曰く、口似乞児席袋、鼻似園頭屎杓、勞君神筆寫成、一任天下卜度宋の仁宗の慶歴六年、五十四歳を以て寂す。文清筆楊岐和尚像(京都大徳寺所蔵国宝)

(『画題辞典』斎藤隆三)