杜子美

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としび


画題

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解説

画題辞典

杜子美、名は甫、唐代の大詩人なり、杜牧を少社というに対して老社と称せらる、初め進士に試みられて及第せず、貧に迫りしも作る所の賦によりて玄宗皇帝の知る所となり、集賢院侍制に挙げらる、安祿山の乱には賊の為めに檎はれしも、節を挺して汗るゝなし、其後再び粛宗皇帝に謁し、次いで復辞して諸方に周遊す、資性豪放、流離の間に節を守り、述懐、哀王孫、北征の諸篇を作りて、忠愛の情を披瀝す、其詩態実に沈痛を極めて古今獨歩の妙境に入る、李白と交情密にして世に二詩聖と並称せらる、年五十九、大酔して卒す、其風雅沈痛の生涯は好画材として屡々画かるゝ所にして騎驢の図、酔歩の図多し、

古く牧渓の筆(牧野子爵旧蔵)を初めとし、本朝にては足利義満及義持の筆する所あり、拙宗、狩野山樂等の作亦知らる、第十二回文展に寺崎廣業の画く所亦是なり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

支那唐代の大詩人、杜甫のこと、子美は其の字で少陵と号し、杜牧を少杜と呼ぶのに対し杜子美を老杜といふ、其先は襄陽の人、後、河南の鞏県に徙る、その祖、審言少くして文名高く李嶠、崔融、蘇味道と共に文章四友と称せられ世にこれを李蘇杜崔といふ、父の名は閑、甫睿宗光天元年生れ、少時家貧にして振はず、玄宗開元二十三年進士の試に応じたが及第せず、二十五年父に兗州に従ひ、斉、趙の間に遊び、又客遊中の李白と交を結んだ、天宝六年、帝詔して一芸あるものを轂下に招く、十年三大礼賦を献ず、玄宗之を奇とし召して文章を試み、京兆府兵曹参軍を授けた、其年、安禄山反して京師を陥る、杜甫、城中に留まること一年、粛宗霊武に即位す、至徳二年逃れて鳳翔に至り帝に行在に謁し、左拾遺に拝せらる、乾元元年華州功参軍となる、二年秋官を罷めて秦州に客となつた、上元元年節度参謀撰校尚書工部員外郎となる、成都の尹厳武と友として善く、其の推挽によるもの極めて多い、武が卒してからは依るところなく、止むなく東蜀に高適を訪ふ、偶々適も卒し、且つ蜀の地が大に乱れたので、家を挙げて乱を荊楚の間に避け、扁舟に棹して峡を下る、然も江陵の地また乱れて舟を繋ぐところも無い、また江を遡つて衡山に遊び、来陽に寓した、大暦五年洞庭湖上に大酔して卒した、年五十九、社甫、放曠自ら撿せず、好んで天下の大事を論ずるに高くして切ならず、少にして李白と名を斉ふし、時に李杜と号せらる、その作る処の詩悉く金玉、収めて『杜詩』にある。

杜子美を画いた作は極めて多い、二三を挙ぐ。

拙宗筆   藤田香雪斎旧蔵

牧谿筆 (東山御物)   松浦伯爵家伝来

この外極めて多く、なほ杜甫と題したものには寺崎広業の筆(第十二回文展出品)がある。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)