李光洙

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李光洙(イ・グァンス/1892~1950) 小説家・思想家。雅号は春園。平安北道・定州生まれ。1902年に両親をコレラで亡くし、1905年には一進会の留学生に選抜されて日本の大成中学から明治学院中学部に進学、この頃、洪命熹や崔南善らと交友を深め、崔南善主宰の雑誌『少年』を中心に文筆活動を始める。10年に明治学院を卒業後、帰国して五山学校の教員となり13年まで勤務。13年11月から満州、上海、シベリアなどでの放浪の後、後援者を得て15年に早稲田大哲学科に入学。17年に創刊された崔南善主宰の雑誌『青春』に短編小説を発表、その直後に『毎日申報』に啓蒙的な長編『無情』(17)を連載して好評を得た。また同じ時期に父祖中心の家族制度や封建的社会倫理を批判した「新生活論」や「子女中心論」などの評論を発表した。19年1月には「2・8独立宣言書」と呼ばれる「朝鮮青年独立団宣言書」を起草、これを英訳して海外に頒布するために東京を離れ上海に渡り、大韓民国臨時政府の樹立に参加、『独立新聞』の社長兼編集局長を勤めるかたわら、島山・安昌浩の準備論思想に共鳴し「興士団」に参加した。22年に発表した「民族改造論」でその思想的基盤を固めるが、内容的に物議をかもした。その後、雑誌『朝鮮文壇』『東光』の主宰や朝鮮日報副社長などを歴任。『朝鮮文壇』主宰中には、その後プロレタリア文学の代表的作家として活躍することになる韓雪野た崔曙海などに習作を発表させる。その後も『瑞宗哀史』(28~29)、『李俊臣』(31~32)などの歴史小説や『土』(32~33)などの農村啓蒙小説を発表し大衆的な人気を維持するが、37年の修養同友会事件で興士団依頼の同志とともに検挙され、半年服役して出所し、安昌浩死亡の報に接してからは、日本の植民地支配に同調的な傾向をみせはじめ、40年には「香山光郎」と創氏改名して学徒動員演説なども行なった。45年の解放後にはそのような対日協力行為のかどで逮捕され、西大門刑務所に収監されるが不起訴処分となった。朝鮮戦争時に人民軍とともに北朝鮮に行き、強制労働中に死亡したとされる。『無情』『愛』など多くの代表作は植民地時代に日本語にも翻訳された。

引用出典:李光鎬編/尹相仁・渡辺直紀訳『韓国の近現代文学』(法政大学出版局 2001・8・1)「人名解説」