本間資忠

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ほんま すけただ


画題

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解説

前賢故実

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(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

南北朝時代の武将、源内兵衛と称し北条高時に仕へた人見恩阿の臣、本間資貞の子、赤坂城の戦ひに父の資定、北条氏の行末を見透し先登して戦死するや、資忠その首級を獲て之を葬り天王寺に到り辞世を遺して戦死す。

既に先懸の兵どもぬけぬけに赤坂の城へ向ひ討死する由披露ありければ、大将即ち天王寺を打ち立ちて馳せ向ひけるが、上宮太子の御前にて馬より下り石の鳥居を見給へば、左の柱に

花さかぬ老木のさくら朽ちぬともその名は苔の下にかくれじ

と一首の歌を書きて、其次に武蔵国の住人人見四郎恩阿生年七十三、正慶二年二月二日赤城の城へ向ひて武恩を報ぜんために討死仕り畢りぬ、とぞ書きたりける、又右の柱を見れば

まてしばし子を思ふ闇にまよふらん六のちまたの道しるべせん

と書きて、相模国の住人、本間九郎資貞嫡子源内兵衛資忠生年十八歳、正慶二年仲春二日、父が死骸を枕にして同戦場に命を止め畢りぬとぞ書きたりける、父子の恩義君臣の忠貞此二首の歌に顕れて、骨は化して黄壌一堆の下に朽ちぬれど名は留りて青雲九天の上に高し。   (太平記巻六)

これを画いたものに

菊池契月筆(三楽荘旧蔵)がある。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)