曲水宴

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きょくすいのえん


画題

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解説

画題辞典

支那及日本共に古く行われたる貴族又は文人の遊戯にして、我国にては王朝時代に三月三日の行事として専ら行われたり、即ち各人流水の辺に座を構え、上流より羽觴を流す、その己が前を流れ過ぐる時、流れ過ざる前に詩を賦し、その盃を取りて酒を飲み、列席に於て更に披講あるなり。支那にては周の世より既に行われ、我邦にては顕宗天皇の時より始まれりという。古来亦屡々図せらるゝ所なり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

昔、禁中で行はれた嘉会、『ごくすゐのえん』『めぐりみづのとよのあかり』とも訓んだ、三月上巳又は三日に行はれた風流の御遊で、御苑の裏禁池の畔に曲溝を通じ清水を引き、これに酒盃を泛べ三公九卿曲汀に坐し、酒盃の其前に至るに及び取て之を飲み、詩歌を詠じてこれを書く、『公事根源』に

是は昔王卿など参りて御前にて詩を作りて講ぜられけるにや、御溝水に盃をうかべて、文人以下是をのむよし康保の御記に載せられたり、又、顕宗天皇元年三月上巳日後苑に幸してめぐり水の豊のあかりきこしめすと日本紀にあり、曲水宴は周の世より始まりけるにや、文人ども水の岸になみ居て、水上より盃を流して我が前を過ぎざる前に詩を作りて其盃をとりて飲みけるなり、羽觴を飛ばすなどいふも此事なるべし。又『明衡往来』三月の状に

曲水宴、唐国は則周公旦を濫觴とし、本朝は顕帝に権与す

と見え、もと支那の風であつたのを移して御宴の折に行はせられたものである、其起原に就いては周武王、殷の乱の平ぐるに及び、周公洛邑に城し、流水に因て酒を泛べ、曲水の宴をなすと称するが、文献の徴すべきものはない。  (日本百科大辞典)

これを画いたものとしては冷泉為恭筆『公事十二月絵巻』の曲水宴最も名高い。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)