明恵上人

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みょうえしょうにん


画題

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解説

画題辞典

明恵上人は華厳宗の高僧にして、諱を高辨といふ、紀伊の人、承安三年二月生る、眉目清秀画くがが如しぃ九歳父母を喪ひ、高尾山に登り、文覺に投じて倶舎論を讀む、十歳にして密乗を尊實に、華厳を量雅に習ふ、十三より感ずる所あり苦練修行を積み、十六剃染して東大寺の戒壇に上り具足戒を稟く、寺に良詮あり、賢首教に委し、上人就いて其旨を得たり、曰く、我国の習解義に専らにして禪定を修せず、是れ本邦の大患にして澆季の弊なりと、因りて北峯の嵓窟に入りて禪定を修得し、華厳の大義によりて座禅次第及入解脱義二巻を撰す、常に佛眼明妃の法を修す、一夜堂外を徘徊するに西方に群猪あり、背に五大星を負ひ光明煥爛として東に向て過ぐを見る、又夢に明妃告て曰く、明日汝に般若理趣分を授けんと、翌午壇上に理趣を誦する声あり、辨之を筆記ず、又或夜の夢告に曰く、三世の諸佛悉く身肉を布施す子之に庶幾しと、或る日華厳を讀み、如來自在他化自在天宮十地法門に至るに、その荘巌の相忽然として現はる、又眼を擧ぐれば、文殊大士が金毛の獅子に乗りて空中に顕はるを見る、後鳥羽上皇深く帥を愛し、北條泰時亦崇敬渥し、寛喜四年正月十五夜.粥勒の像に對して湖に入リロより白光を放つ、時を移して定を出で、告げて曰く吾が行期近しと、十九日彊勒菩産の将號を唱へて寂す、年六十山城高山寺に上人坐禪の像あり、国宝なり、叉上人基通對坐図あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

明恵上人は華厳宗の高僧、諱を高弁といふ、紀伊国有田郡の人、父は重国、其母初め嗣なくして祈り一柑子を得ると夢みて承安三年正月生るといふ、眉目清秀画くが如く、父母の寵を一身に集めてゐたが九歳の時父母共に世を去つたので高雄山の文覚に就き倶舎論を学び旬日ならずして能く暗誦す、十歳密乗を尊実に学び華厳を量雅に習ひ、又尊印に従つて悉曇章を学びその上達著しく師は屡々質疑の答弁に苦しんだといふ、十三にして苦行を志し十六の時剃染して東大寺の戒壇に登り具足戒を受く、寺に聖詮と云ふものあり、賢首教に精し、明恵、これに教を聞いてよく旨を得、又興然阿閣梨に従つて両部の密教を稟けた、遂に高山寺に入つて大に賢首の宗を唱ふ、一夜堂外を徘徊すると西方に群猪があつて背に五大星を負ひ、光明燦として東に向つて過ぐるを見た、又夢に明妃現はれ告て曰ふ、明日汝に般若理趣分を授けんと、翌午壇上に理趣を誦するの声を聞く、其の声微妙なり、明恵悉くこれを筆記す、又不動の法を修すれは忽ち道場変じて宝苑と成るを見る、一日耳を刵つて仏眼に供す、其の血、像壇及供器に洒ぐ、夜夢に梵僧謂て曰、三世の諸仏悉く身肉を布施す子今之に庶幾しと、或は華厳を読んで如来自在他化自在天宮十地法門と云ふ所に至れば、夫の荘厳の相忽然として相はる、又眼を挙ぐれば文殊大士が金毛の獅子に乗じ空中に現じ光明赫奕たるを見る、寛喜四年正月十五夜弥勒の像に対して観に入り口より白光を放つ時を移し定を出て門人に告げて云く、我が行期近しと十九日の朝広く修学の法を説き然る後声を挙げて弥勒菩薩の聖号を唱へ遂に右脇微笑して逝く年六十。  (元亨釈書、東国高僧伝)

明恵上人はまた花道茶道に精しく、花道では松月堂古流の開基と称せられ尊崇さる。

これを画いたものに、高山寺蔵『明恵上人坐禅図』があり国宝に指定されてゐる、此外現代の作家に左の諸作がある。

安田靫彦筆   『明恵上人』    三昧堂展出品

奥村紅稀筆   『同』       第八回帝展出品

名古屋謙一筆  『楞伽山の明恵』  同十回展出品

福岡青嵐筆   『明恵伝』     第十回青竜社出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)