文室浄三

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ふんやの きよみ


画題

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解説

前賢故実

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はじめは諸王の一人で、名は智努王という。養老初年頃は從四位になり、天平年間木工頭領造営卿を勤めていた。帝は都の北苑を行幸した際、智努王の造営の功を誉め称えて宴を賜与した。宝字初年に参議に叙任。大臣の直諫を求める詔があったとき、浄三が奏上したことは、帝がすべて聞入れてあげた。その後、御史太夫、從二位まで昇進したが、宝字八年には官職を致仕した。廃帝(淳仁天皇)が「一昨日、卿が余に朝して家に帰った後、余は卿が高齢のため礼儀によって官職を辞したことを知った。余は窃かに一喜一憂の思いを抱いている。一喜とは、卿が功名をあげたあとに引退するという善道を守れたことだ。一憂とは、卿が老弱してから農家に戻ること。良い時宜で止めることを知っていれば危険に遭わず、満足を知れば恥をかかない、と古の人が言う。卿の言う通りだ。誠意のこもった卿の気持ちを背けない。」という詔を下し、浄三の辞官を許した。帝より杖や新銭を賜与された。孝謙天皇の崩御後、儲位が定まらなくて、吉備真備らによって皇嗣に推されたが、浄三はこれを固辞した。宝亀元年薨去。臨終の前に、浄三は薄葬として朝廷からの鼓吹を受けないと言残した。

(『前賢故実』)