徳山禅師

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とくざんぜんじ


画題

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解説

画題辞典

徳山禅師、宣鑑という、唐代の禅僧なり、蜀の剣南の人、少にして出家し律蔵を學び金剛教を講じしが、南方に於で禅風盛なりと聞き、大に平かならず、其妄を破らんと蜀を出でて礼陽に至り、一老婆の餅を売るを見て中食を乞ふ、老婆其携ふる所の金剛経なるを知り、いうて曰く爾に問ふことあり答ふるを得ば中食を与へんと、即ち曰く、経中に過去心も得べからず現在心も得べからず未来心も得べからずとあり、今何の心に中食を求むるやと、宣鑑答ふる能はず、去つて龍潭に就き玄旨を究む、一度潙山に赴き法堂を西法より東方に過ぐれども山主霊祐禅師言無し、宜鑑無しや無しやと呼び去らんとせしが、再び到り門に跨り坐具を捧げて和尚と呼び、霊祐の起ちて払子を執らんとするを見て、一喝して去る、霊祐學徒に告げて曰く、彼れ将来把茅を頭に蓋ひ仏を詆り祖を罵るべしと、其後礼陽に在る三十年、唐の武宗の時獨浮山の石室に隠れ、大歴年中武陵の大守薛延望、宣鑑の精舎を尊び古徳禅院という、此後その法道大に振興す、咸通六年十二月三日寂す、

曽我蛇足画く所二幅、京都養徳院所蔵にあり、国宝なり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

徳山禅師、雄は周氏、名は宣鑑、剣南の人、幼時より出家し経律の諸典を究め、最も金剛般若の教理に精通した、そこで世人呼ぶに周般若の称を以てした、南方の禅興るに際し、南遊して法を竜潭に受け、青原門下の第五世を嗣ぎ徳山院に居す、徳山和尚の名ある所以である、咸通六年十二月三日、寿八十四歳にして寂す、諡号を見性禅師といふ。     (仏教辞林)

曽我蛇足筆  『徳山禅師』(国宝)  京都養徳院蔵

雪舟筆    『伝大士徳山懶瓉』   藤田香雪斎旧蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)