御堂関白

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みどうかんぱく


画題

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解説

画題辞典

御堂関白は藤原道長の稱なり、又別に法成寺関白、或は法成寺入道前関白太政大臣などと稱せらる、法興院前関白兼家の第五子なり.正暦年中権大納言に任じ、従一位に叙し、左近衛大将を兼ぬ、時に兄道隆の子伊周年少にして内大臣たり、道長之と権を争ひ、一時伊周に越されしが、道隆道兼相次いで薨ずるに及び、道長東三條院の推擧により、壽徳元年内覧を許され右大臣を拝し氏長者となる、長保二年その女彰子立ちて一條天皇の中官となる、上東門院是なり、道長是より漸く権威を弄し天皇甚だ懌び給はずといふ尋いで三條天皇の時に及び、道長の僣恣釜々甚だしく、またその女研子を進めて中官となし、更に天皇に眼疾あるを機として、位を太子に譲らしむ、即ち後一條天皇にして、上東門院の出なり、直に摂政となり三官に准じ、年官年爵を給はる、尋いで従一位に叙し太政大臣となり、輦車宮中に出入するを許るさる、寛仁二年十月更にその女威子を中官となす、道長その時の述懐を叙せる和歌に曰く、此世をば我世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば已は位人臣を極め、三女皆后位に上り、天下の榮誉を一身に集む、得意想ふべきなり、三年疾によりて祝髪し行観と號す(後行覺と改む)、万壽四年十一月六十二を以て薨ず、其墓を以て荷前例幣の数に列せらる、道長寛仁年中私第を上東門に営むや、貢を諸国に課し、其木石を輸するに交通を遏め行人に命じて曳かしむといふ、第成るや王公の贈遺甚だ盛なり、又甚だ佛法を信じ、屢々俳堂に供養し、六齋目毎に天下の殺生を禁ぜりといふ、晩年法性寺を京極に創め、大に功役を興し、宮中諸司及神泉苑乾臨閣の石を採りその用に充てたりといふ、工事半にして會々疾に罹りしかに、子頼通諸国に令し公事を綏にするも此役を怠るなからしめたり.治安二年成を告げ.天台の院源を導師として落慶供養を行ひたり、實に當代の壮観にして中央に大御堂あり、諸堂宇之を廻り、荘厳善美を尽す、天皇東宮三后の臨御ありも各堂の供養次ぎ々々に行はれ、亦一代の盛事を極めたり、道長一代の行事に就きては近末画かるゝ所特に少しとせず。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

藤原道長をいふ、別に法成寺関白、法成寺入道前関白太政大臣などゝ称せらる、兼家の子、天元三年従五位下に叙し累進して従三位に陞り左京大夫を兼ね、正暦中権大納言従二位となり左近衛大将を兼ねた、時に兄関白道隆の子伊周弱冠にして内大臣たり、道長これと権を争ひ、長徳年間道隆が薨じたので亦伊周と共に関白の位を争つたが、一条天皇の御母、東三条院が道長の姉に当つてゐたので右大臣となつた、長徳二年伊周、その弟の隆家が事に座して一門皆郤けられたので天下の権は全く道長の手中に帰し、その年七月左大臣となり正二位に進み長保二年には道長の女、女御彰子中宮となつた、上東門院即ちこれで、後一条、後朱雀の両帝を生んだ、是に於て道長漸く権を弄するの嫌あつたので、天皇これを厭はせ給ひ、自ら中書王の『菟裘賦』の後に『叢蘭欲茂秋風吹破、王事欲寄讒臣乱国』と書し給うた、道長これを函中に発見し怒て破棄たといふ、三条天皇御即位に及び道長の僣恣愈々募る、即ち女研子を立てゝ中宮とし、天皇眼疾を患ひ給うを機とし、強いて位を太子敦成親王に譲らしめた、後一条天皇これである、道長即ち摂政となり、翌年摂政を子頼長に伝へ従一位となる、三条上皇崩御の後、道長太子を廃し彰子生む所の敦良親王を皇太弟とし、太政大臣となつたが、幾許もなく辞した、其歳十月女、威子立ちて中宮となるや道長大に喜び

此世をば我が世とぞおもふ望月のかけたることもなしとおもへば

と得意思ふべしである、万寿四年十二月六十二を以て薨ず、道長性甚だ仏教を信じ、六斎日毎に天下の殺生を禁じ又屡々仏堂に供養す、後法成寺を京都に創め大に工を興し公卿をして宮中諸司及び神泉苑乾臨閣等の石を採り以て其用に充てしめた、土木未だ成るに及ばずして病むに至つたが、堂宇は頼通によつて成り、その落慶供養は荘厳善美を尽したといふ、道長一代の豪華は『栄花物語』の中によく尽されてゐる。

絵画にも道長を主題としたもの少くない、二三を挙ぐ。

松岡映丘筆  『御堂関白』    第九回文展出品

吉村忠夫筆  『朝勤』      国画院展出品

長野草風筆  『法成寺万灯会』  第二回院展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)