後白河法皇

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ごしらかわほうおう


画題

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解説

画題辞典

第七十七代の天皇、御名は雅仁、鳥羽天皇の第四皇子なり、久寿二年七月近衛天皇崩じ、天皇立つ時、崇徳上皇重祚の意あり、発して保元の乱となる。又保元三年位を皇太子に譲り法皇として院中に在って政を行う時嬖臣権中納言信頼と藤原通憲と善からず、遂に平治の乱を起す。初め法皇武人を用いて王権恢復を図りしが、後平清盛の勢の盛なるを観て復之を抑えんとし而して遂にに清盛の為めに一たび二たび幽屏せらるゝに至る。清盛薨後復政を見る、続いて源義仲の京都に入りし時、又源義経の兄頼朝と隙を生ぜし時、何れも法皇之に擁せられしことあり。頼朝兵馬の権を得るに及び遂に王権恢復を断念し専ら仏道に帰す。前後仏寺の法皇によりて起さるゝもの少なからず、法住寺殿新御堂、長講堂、三十三間堂、皆法皇の勅願なり、又屡々奈良に詣で高野山に幸し熊野に幸す、皆御信仰の余に出でたるなり。建久三年三月十六日崩ず。

御白河法皇御影(京都妙法院所蔵)は国宝にて芸術的にも価値高きものなり。

(『画題辞典』斎藤隆三)