後三年合戦

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ごさんねんかっせん


画題

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解説

画題辞典

応徳寛治年間奥州に起りし兵乱にして、前九年役に対し合戦三年に亙るというより後三年役というなり。始め清原武則阿部貞任を討ち、功を以て鎮守府将軍となり、其族強大となりしが、孫真衡に及び、その姑夫吉彦秀武と隙を生じ、一族清衡、家衡は、秀武に党し、遂に奥州の大乱となる。会々永保三年源義家陸奥守となり、奥州に下るに及び、真衡を援けて秀武を攻め、秀武清衡尋いで義家に属し、武衡家衡と対峙す、武衡家衡金澤柵に拠る、義家之を囲みて昿日持久を策す、家衡等遂に窘蹙して敗走し、義家の兵の為めに斬られ、奥州始めて平ぐ。此役実に源家の勢力を関東奥州に扶植したる基にして、歴史上特殊の意義ある戦役なり。義家が進軍中飛雁の列を乱すを見て伏兵を知りしことも亦此役の中にあり、源義家の条併せて参照すべし。

此戦役を図したるもの因州池田侯爵家に飛弾守惟久筆後三年合戦記絵巻あり、是れ徳川家康の女の北条氏直に嫁する時持参せるものにして、後池田氏に再嫁せる時更に之を持参せるものなり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

前九年役に対し後三年の役といふ、前九年役に戦功あつて鎮守府将軍となつた清原武則の子に武貞といふのがあり父に嗣いで胆沢、江刺等六郡を領し勢威を振つた、其子真衡に至り部下の吉彦秀武、出羽から来り謁す、真衡、客と碁を囲んで顧みず、秀武大に怒り齎す処の酒饌に唾して出羽に帰つたので真衡兵を発し秀武を攻めた、秀武敵し難いのを知り真衡の異母弟家衡及母兄亘理清衡を其援とし真衡の虚に乗じて其の塞を襲はしめた、真衡変を聞いて出羽から帰り家衡等と戦ふ用意をした、時に応徳三年である、源義家陸奥守に任じ鎮守府将軍を兼ねてゐたので真衡を援け秀武を攻め、又、家衡の沼の柵をも攻めたが却て敗北して帰つた、家衡の叔父武衡、義家の敗報を聞て家衡に応じ金沢柵に拠る、義家之を攻めやうとして敵に伏兵の備あるを雁行の乱れによつて知り伐つて勝つ、義家の弟義光は当時検非違使として禁衛の任にあつたが義家敗ると聞き奥州に下り倶に力を協せて家衡を攻めたが容易に破ることが出来ず苦戦中、秀武清衡共に志を変じ義家に属し、又武衡家衡を攻め長囲を築いて降るを待つ、寛治元年十一月天寒うして柵中糧食尽き家衡武衡は夜に乗じ自ら柵を焼いて逃げたが、義家の兵追撃して之を斬り乱は平ぎた、義家凱旋し朝に請て有功の士に賞を行はんとしたが廷議私闘なりとして功を録せず、義家則ち私費を以て将士を賞した、ここに於て関東武士は大に源氏を徳とするに至つた。 (大日本史)

この合戦を画いたものが有名な『後三年軍記絵巻』で筆者は飛騨守惟久、詞書は僧玄恵手跡は章尊円親王、池田侯爵家の伝来である。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)