彭祖

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総合

【出典】

王世貞『有象列仙全傳』

林守篤『画筌』

近世視覚文化を読み解くほうそ


画題

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解説

画題辞典

彭祖は錢鏗といふ。支那古代の仙なり。帝顕頊の玄孫にして、殷の末世に年七百餘歳にして衰へず。蓋し恬静を好み神を養ひ生を治するを事とするが故なりとす。殷某王(或ほ周穆王)召して太夫となす。疾と称して政を視ず。彭祖補導の術を喜くし井に水晶雲母粉と縻角を服して常に少年の容あり王采女を遣ほし従つて術を彭祖に問ふ。彭祖具に之に要を授く。王之を房中の術に施して効あり。即ち彭祖を殺して其道を絶たんとす。彭祖知りて去り、往く所を知らず。後七千年、之を流沙の間に見たる人ありといふ。彭祖家に四十九妻を喪ひ五十四子を失ひ、伺ほ壮なりといふ、殷王は彭祖より術を得て三百歳の壽あり氣力丁壮の如きものありしが、鄭女妖淫なるを得てより道を失ひ、遂に殂すといふ。東京帝室博物館に室町時代の作品あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

彰祀は支那の仙人、殷の末世に七百余歳を保つたといふので、長寿を祈る意味から画かるゝもの多い。『列仙伝』第一巻に載す。

彭祖、銭鏗帝顓頊玄孫、至殷之末世、年已七百余歳而不衰、好恬静惟以養神治生為事、穆王聞之以為大夫、称疾不与政事、善於補導之術并服水晶雲母粉麋角、常有少容、采女乗輜輧往句道於彭祖、采女具受諸要以教王、王試為之有験、彭祖知之乃去、不知往、其後七十余年門人於流沙西見之、一云周衰始浮遊四方、晩入蜀抵武陽留、家喪四十九妻失五十四子。

これを画いたもの室町時代の作で筆者不明のもの東京帝室博物館にある。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)