張巡

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ちょうじゅん


画題

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解説

画題辞典

張巡は唐代の忠臣なり、安祿山の乱、真源に令たり、許遠と共に睢陽城を守る、孤軍重囲に陥りて糧食尽き、茶紙を喫し、馬を食ひ鼠を堀り、更に妾を殺して之を士卒に食はしむ、四万の兵遂に四百を剰し、且つ皆病んで戦ふ能はざるに及び、「鬼となりて賊を殺すべし」と叫び、執へられて斬せらる、張巡身長七尺、鬚髯神の如く、怒れば悉く逆立す、三たび一書を讀めば終身忘れず、文は稿を作らずして成る、兵を行るに古法に依らず、戦陣に臨み将士に任じて疑はず、将士又張巡に信服し、為に死を恐るゝものなしといふ。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

支那唐代の忠臣、鄧州南陽の人、群書に通じ戦陣の法に精しく、身長七尺、節義高く、鬚髯美しく神の如しと云ふ、天宝十五年安禄山反するや譙郡の太守楊万石早くも賊に降り、巡を長吏として之を迎へやうとしたが巡聞かず、兵を起して賊を討つ、従ふもの千余人、大小数百戦、頻に賊を悩ますや賊将楊朝宗巡が糧道を絶つて之を討たうとした、張巡兵三千、馬三百を以て睢陽に至り、太守許遠、城父令姚誾等と合し、将、雷万春、南霽雲等を遣はし、賊を討て大に之を破る、至徳二年安禄山死するや、其子慶緒、尹子琦を遣はし突厥等の兵に朝宗の軍を合し、凡そ十余万人を以て睢陽を攻む張巡、士卒を励まして之を固守し一日二十戦に及ぶも亳も気衰へず、許遠はその材の巡に及ばぬを覚り、軍事を巡に委ね協力して大に敵に当つた、敵は愈々援軍を増し、大挙して城を囲んだ、初め城中には穀六万斛あり、一年は支へることが出来たのに、其の半を割いて他に送つたので、城中食尽き、士一日米一勺を得、木皮を噛み、紙を粥とし力戦するの士卒饑ゑて餓死するもの続出し、遂には愛妾を殺し、奴僮を仆しを喰ひ、を狩り、を羅し、終には鎧弩をも煮て食ふに至る、然もなほ降らず、かくて城を支ふること十ケ月、遂に城陥り賊の為めに捕へらる、賊刃を以て脅し降伏を迫つたが張巡罵つて屈せず、遂に害せらる、時に年四十九、粛宗立つに及び、張巡に楊州大都督を追贈し廟を睢陽に建て、これを祀つた。

張巡、許遠は武将の鑑として古来画かれてゐる。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)