廃太子恒貞

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はいたいし つねさだ


画題

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解説

前賢故実

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淳和天皇の皇子。端正で厳粛な容貌を持ち、威儀があって穏やかに振る舞い、経典や史書を好んで読んでいた。嵯峨天皇に評価されて、仁明天皇が即位すると恒貞を皇太子に冊立した。小野篁、春澄善縄が春宮学士に選ばれた。恒貞は初めて朝廷に出たとき、賜与された御衣を頂き、拝舞をして退出した。九歳であったにもかかわらず、礼儀が正しく老成している儀容であった。恒貞はまた上奏して釈奠の復興を願い、その許可を得ると、百官を率いて礼を修め、博士らの官僚に儒家の経典の教授や、儒家思想に関連する詩の作成を命じた。恒貞も同様の詩を詠んだ。菅原清公や滋野貞主が恒貞の行動を称賛していた。才能と知恵の成長に伴い、恒貞は世事を熟知するようになり、帝の嫡男でない自分が皇太子の地位に留まると、いつか禍を招いてしまうと憂慮していた。それで、皇太子の辞退を申し入れたものの、仁明天皇に許してもらえなかった。淳和上皇の崩御に続いて嵯峨上皇も崩御し、幾年か経つと春宮帯太刀の伴健岑らの謀叛が発覚した。恒貞は連座を恐れて皇太子を固辞したが、仁明天皇が「健岑が凶徒だ。太子とは関っていないので、気になさらないで下さい。」と優しく言った。そのとき、帝が冷泉院へ避暑に行くので、恒貞は帝に随行していた。しばらくして、左近衛少将の良相が兵士を連れて、皇太子の直曹を包囲した。恒貞は穏やかで晏然たる態度で「吾は身分に合わない重荷を背負っていた。前から禍を招くだろうとわかって、度々皇太子の辞退を懇願したが、いずれも却下された。今日に至ったのは運命ではなかろうか。」と言った。その後、恒貞は親王に降格され、淳和院に移されて東亭子に住んだ。のち仏道に帰依した。元慶八年、陽成天皇が退位した際、太政大臣藤原基経が恒貞を擁立しようとしたが、恒貞はこれを退けた。同年に亡くなり、享年六十歳。

(『前賢故実』)