平維茂

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たいらの これもち


画題

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解説

前賢故実

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鎮守府将軍繁盛の子。幼い頃より勇気と策略を有し、伯父の貞盛に可愛がられ、貞盛の養子になった。かつては貞盛に連れられて陸奥で住んでいた。当時、維茂は豪族の藤原諸任と田地をめぐって争っていたので、兵を集めて諸任を攻めた。諸任が維茂の攻撃を避けて常陸へ逃げたため、維茂は傲り高ぶって防備を設けなかった。維茂の隙につけこみ、諸任は帰ってきて維茂を急襲した。維茂はわずか二十人の兵で戦い、朝まで奮戦したが、結局自宅に火を放ち、萑や葦の間に身を隠すことにした。諸任は維茂が死んだと思い込み、喜んで去った。その後、急変を知って数十人の維茂の兵が駆けつけた時、維茂は「過ぎたことに関しては、わたしは大変恥ずかしく思っている。恥辱を忍んで生きるより、死を選んだほうがいい。諸任が一勝を獲得したので、必ず防備を緩めてしまう。今のうちに諸任を襲撃すれば、成功するはずだ。」と部下に話した。すると、維茂らは、諸任らを追いかけ、急襲して殺した。これにより維茂の威名が大いに高まった。遂に鎮守府将軍を拝した。八十歳で亡くなった。貞盛の養子が多くて、維茂は十五番目だったから、世間では余五将軍と呼ばれていた。

(『前賢故実』)