島田忠臣

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しまだの ただおみ


画題

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解説

前賢故実

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貞観初年、越前権少掾を務めていた。渤海聘使が来朝した際、副使の周元伯が文辞に秀でているので、朝廷は文才のある忠臣を加賀権大掾へ抜擢して、周元伯との唱和に遣わした。のち少外記に任ぜられ、從五位上へ昇進。元慶中、美濃介を務め、政務に応じて玄蕃頭を兼任して、式部少輔の菅原道真とともに渤海聘使の裴頲を接待した。寛平元年、大学博士の善淵愛成が帝に周易を教授していた際、忠臣は都講として務めた。講義の終了を祝う御宴では、忠臣は詩を詠み序を作成した。忠臣が亡くなると、道真は哀哭して「自是春風秋月夜(これからは春の風や秋の月夜が来た時)、詩人名在実応無(自然を詠む人がいても本当の詩人はもういないだろう)」という詩を詠んだ。紀長谷雄が忠臣を「当代の詩匠」と讃えたことがある。

惜櫻花(桜を惜しむ)

宿昔猶枯木(しばらくの間に枯木のように見えたが) 迎晨一半紅(朝を迎えて花が半分ほど開いた) 国香知有異(国で最も美しい花として、ほかの花と異なるところを持ち) 凡樹見無同(普通の樹木とは類似するところがない) 折欲妨人鎖(花を折る人を妨げるための鎖が欲しい) 含応禁鳥籠(花を銜える鳥を諫めるための鳥籠も必要だ) 此花嫌早落(この花の早く散るところを嫌って) 争奈賂春風(仕方なく春風に贈物を差し上げましょう)

(『前賢故実』)