山部赤人

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やまべのあかひと

生没年不詳。奈良時代の歌人。明人とも記す。姓(かばね)は宿禰。生没年・閲歴ともに未詳。『万葉集』に長歌十三首、短歌三十七首を残す。製作年次の明らかな作品によれば、作家活動は神亀元年(七二四)から天平八年(七三六)に及んでおり、その後間もなく没したか。吉野・難波・印南野。紀伊行幸に従っての讃歌もあり宮廷歌人として活躍したことが知られる。



〈参考文献〉

『国史大辞典14』国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館やまべのあかひと


画題

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解説

画題辞典

山部赤人、王朝の歌人にして六歌仙の一人なり、柿本人胸と名を齊うし、後世章して人麿は赤人の上に立ち難く、赤人は人麿の上に立ち難しといはる、富士山を詠ずるの和歌田子の浦ゆ打出でて見れば員白にぞ富士の高根に雪はふりけるといふあり、最も人口に膾炙す、歌仙として古来画像多し、益場某氏の所蔵に古画像あり、東京帝室博物館所蔵に岩佐勢以画けるものあり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

王朝の歌人、和歌を以て聞え柿本人麿と名を斉うし、称して山柿と云ふ、論者曰ふ、人麿は赤人の上に立ち難く、赤人は人麿の下に立ち難しと、後世称して和歌の仙となす、神亀の初め聖武天皇の紀伊国行幸に従ひ天平年中には吉野離宮に陪し、制に応じて歌を作る、嘗て春日に詣で、神岳に至り伊予道後の温泉に浴し、辛荷島、敏馬浦に遊び、また東に遊んで富士山を望み、作る処の歌多く世の為めに称せらる。

田子の浦ゆ打出でて見れば真白にぞ富士のたかねに雪はふりける

と、天平八年吉野宮に幸し詔に応じて作つた歌を最後として其の以後の作を見ず。その歌は簡勁にして雅麗、最も短歌をよくし、殊に叙景の詠に体を得てゐる、賀茂真淵、赤人の歌を評して『譬へば檳榔の東して大路を渡るぬしのあからめもせぬ如し』と。  (大日本史)

赤人を画けるもの歌仙として数多い。

岩佐勝以筆  人麿赤人双幅  帝室博物館蔵

狩野常信筆  三幅対の一   川崎男爵家蔵

藤原信実筆  三十六歌仙   佐竹侯爵家旧蔵

狩野探幽筆  和歌三聖の中  前田侯爵家旧蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)