小野小町

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総合

おののこまち

平安時代初期、仁明朝(833~850)に活躍の女流歌人。生没年は未詳。六歌仙・三十六歌仙の一人。謡曲のシテとして設定され、「卒塔婆小町」などの「七小町」と称される作品がある。小町については壮衰を述べるものが主流を成しており、『十訓抄』第二、『古今著聞集』第五には次のように記されている。

若く、男性との交渉が盛んであったころは比類ない驕りの生活で、衣食にも贅を尽くし、和歌を詠じての日々であった。多くの男達を見下し、女御や后の位を望んだものの、両親、兄弟をつぎつぎに失い、一人破屋に住む身となり、ついには山野を浪々することになってしまったという。小町伝説の主要素は好色、驕慢な態度、孤寡、貧窮、流浪、和歌の詠作、著名歌人とのかかわりである。若年時の栄華と老年に至っての衰容、貧窮の対象性が際立っている。


参考文献

乾克己ほか『日本伝奇伝説大事典』角川書店、昭61・10おのゝこまち


画題

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解説

画題辞典

小野小町は平安朝に名高き美人なり。父を小野良真という明眸皓歯、艶麗の容姿当代に冠たり、最も和歌に長じ、其詠の古今集に収録せらるゝもの少からず。「花のいるはうつりにけりないたづらに 我が身世にふるながめせしまに」の一首は小倉百人一首に選ばれて世に名高し、六歌仙、三十六歌仙の一人なり、又草紙洗、卒都婆小町等の逸話世に知られて画材たり、各その条を見るべし。

緒方光琳の筆(谷森真男氏所威)、岡田為恭筆(伊藤由太郎氏所蔵)あり、又浮世絵に成るものは、東京帝室博物館に西川祐信、月岡雪鼎の所画あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

前賢故実

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その出自は明らかでない。出羽守良真の娘だと言う説もある。小町は絶世の美貌を持ち、才気に溢れ、特に和歌に長けていた。六歌仙の一人だと評されている。紀貫之が古今和歌集を編纂する際、小町の歌を多く取り込んだ。貫之は古今和歌集の序では、「小町の歌は衣通姫の歌の類に数えられる。その歌詞は悲しみあわれむ気持ちがあり、気力に欠けていて、まるで美女が少し病んでいるようだ。女性が詠んだ歌は、こうであるべきだろう。」と評価した。

文屋のやすひでが三河の掾にてくだりけるにさそわれて

わびぬれば身を浮き草の根を絶えて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ

(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

小野小町は平安朝に於ける佳人であり歌人である、良真の女で、唯に容色が美しかつたのみでなく、和歌に秀でてゐたので、その作古今和歌集等に収録されたもの少くない、然しその生涯は詳でなく、世に玉造小町壮衰書といふものがあり、或は空海の著といひ、三善清行の著であるともいふが明かでない、書中小町年老いて路に袖乞することを記してゐる、後人多くこれを小野小町とし、十訓抄、古今著聞集の如き、みなこれを載せ、無名鈔亦在原業平の体骸歌を引いて両小町の両人であるというてゐるが信ずるに足らぬ。  (国史大辞典)

その『古今著聞集』に載するところ左の通りである。

小野小町が若くて色を好みし時、もてなしありさまたぐひなかりけり、装衰記といふものには、三皇五帝の妃にも、漢王周公の妻も、いまだこの奢をなさずと書きたり、かかれば衣には錦繍のたぐひを重ね、食には海陸の珍をとゝのへ、身には蘭麝を薫じ口には和歌を詠じて、よろづの男をばいやしくのみ思ひくたし、女御后に心をかけたりし程に、十七にて母をうしなひ、十九にて父におくれ廿一にて兄にわかれ、二十三にて弟をさきだてしかば、単孤無類のひとり人になりて、頼む方なかりき、いみじかりつるさかえ、日ごとに衰え、花やかなりし容貌年々にすたれつゝ、心をかけたる類も疎くのみなりしかば、家は破れて月ばかり空しくすみ、庭は荒れて蓬のみ徒にしげる、かくまでになりにければ、文屋康秀が参河の掾にて下りけるに、さそはれて

わびぬれば身をうき草のねをたえて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ

とよみて、次第におちぶれて行くほどに、はてには野山にさすらひける、人間の有様これにてしるべし。  (古今著聞集巻五)

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)