宗祇法師

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そうぎほうし


画題

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解説

画題辞典

宗祇法師は連歌の大家なり、飯尾氏、自然斎、見外斎又種玉庵と号す、紀の伎楽師の子、少にして律僧となり、初め和歌に志し、後連歌を猪苗代兼裁に學ぶ、初め余裁曰く、連歌のこと二十年の学習を要す、今子已に壮齢、惜むべし十年後れたりと、宗祇曰く十年の間功を昼夜に積まば即ち如何と、兼裁嘆賞す、遂に連歌に於て天下第一の名を博し海内その風を仰ぎ、天子、花の下の号を賜はるに至る、寄旅を好み四方に萍遊し、東は金華の嶺に登り、北は越山の雪を踏み、西は紫塞を極め、足跡国内に遍し、文亀二年七月晦日函根の逆旅に歿す、年八十二、宗祇香を嗜み美鬚を蓄ふ、蓋し香氣を宿せしむる所なりという、嘗つて山行して賊に遇ひ悉く奪はる、行く数里賊復迫ひ至り其髯を得んとす、実に拂子を作りて京に鬻がんが為めなりという、宗祇悵然和歌を詠して曰く、「我がために拂子ばかりは免せかし塵の浮世を棄てはつるまで」、賊感悟悔謝して前に褫ふ所を還すという、

箱根早雲寺に画像あり、因州池田侯爵所蔵に土佐光起の筆あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)