守屋大連

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もりやおおむらじ


画題

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解説

画題辞典

物部守屋は尾興の子にして、敏達天皇の朝父に継いで大連となる、時に佛法漸く行はれ、大臣蘇我馬子首として之を祟信す、守屋喜ばず、屢々之を規諫す、十四年疾病大に行はるゝに及び、是れ佛法を唱ふるが故なりとし、禁絶の勅を請ひ、守屋自ら寺に往き胡床に踞して堂字を毀ち.又馬子を責め、その崇信する三尼を追ふ、已にして用明天皇不豫なり、詔して佛を拝せんとす、守屋中臣勝海と亦諫争せしも納れられず、馬子僧を引て宮中に入る、守屋阿部の別業に退居す、己にして帝崩ずるに及び、守屋穴穂部皇子を立てんとす、未だ事成らざるに謀洩れ、穴穂部馬子の殺す所となり、馬子、豊聰耳皇子を奉じ守屋を攻む、守屋初め善く防ぎしも遂に射殺せらる、国画玉成會展覧會に安田靭彦の所画あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

物部守屋のこと、守屋は尾輿の子、父に襲いで大連となつた、敏達天皇の御宇、仏法漸く世に行はれ、大臣蘇我馬子これを崇信すること深かつたが守屋之を喜ばず、屡々天皇に諌むる処があつた、偶々同天皇の十四年、疫病流行し死するもの多かつたのを見て、守屋はこれを仏法崇信の致す処とし中臣勝海と共に之を禁ぜんことを請ふ、天皇これを容れて詔を賜ふたので、守屋は直ちに命じて堂宇を破壊し仏像を焼き、馬子の崇拝する三人の尼僧を捕へたりした、これより先き、大臣と大連とは相並んで政を行つてゐたのであるが権力は両立せず屡々相争ふに至つたが、此からは愈々抗争が激しく用明天皇の二年、天皇の御不例によつて遂に爆発し、守屋は河都の別業に退き兵を聚めて自ら守り、中巨勝海またこれに応じた、馬子は乃ち厩戸皇子と共に謀つて勝海を殺し、警備を厳にした、天皇崩御せらるゝや守屋は穴穂部皇子を奉じて位に即けやうと策を図らしたが、謀は漏れて馬子は皇子を殺し兵を率ゐて守屋を攻めた、守屋奮戦したが遂に利なく、跡見赤梼の為めに殺された  (大日本史)

これを画いたものに安田靫彦の作がある、国画玉成会の出品。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)