女方

提供: ArtWiki
移動: 案内検索

総合

歌舞伎

初期の代表的な女方に右近源左衛門

非公開

女性に扮する役者の総称。女歌舞伎が禁止された寛永六年(1629)以後、歌舞伎は男性が女に扮するように運命づけられ、演劇性の向上とともに、真実に近い女性を表現する女方の芸が完成し、歌舞伎の特色の一つとなった。 女方は「おやま」とも呼ばれるが、遊女のことを「お山」といったところから、初期の女方の役には遊女が多かったので、遊女に扮する者という意味で用いたという。また女の人形をつかう名手に小山次郎三郎という者がいて、その姓から出たともいわれる。 女方には、初期には大きく「若女方」と「花車方」とに分れていた。「若女方」は娘・姫・傾城などの若い女性に扮する者で、年齢的にも若い俳優であった。 「花車方」の花車というのは、年配の仲居の意味で、中年の女性の役柄で、「女房方」「老女方」ともいう。「花車方」のなかで、武家の女房などで武道のたしなみもあり、舞台で男性を相手にきりまわす烈女のタイプの役を「女武道」という。一方、庶民の女房で、夫によくつかえ、家事を切りまわすような女性役を「世話女房」といっている。 女方のなかで、文化・文政期以後の脚本K出てくる毒婦(三日月おせん・妲妃のお百・鬼神のお松など)の役を「悪婆」という。 一座の最高の女方が「立女方」で、それにつづく幹部級(名題)の女方は、劇場の二階(中二階と呼ぱれた)に個室の楽屋があった。おも女中・仲居・腰元・官女などの役をする下級の女方も、二階の大きな部屋に雑居していたので、彼らを総括して「中二階」といった。(「歌舞伎事典」)

女方(形)は別に「おやま」ともいう。このことばは、劇団または劇場における最高の地位にいる女方を意味する「たておやま(立女方)」という熟語として今でも使われている。おやまの語源は、遊女のことを「お山」といい、初期の女方の扮する役が、もっぱら遊女だったからであるという説のほかに、女の人形をつかうのが巧みであった小山次郎三郎の名を採ったともいわれている。歌舞伎は元来出雲のお国がはじめた、女性中心の芸能であったが、風紀取締の名目で、女優の舞台出演が禁止されたために、男性のみの芸能に変った。その男性の芸能にしても、美少年が容色を売ろうとする若衆歌舞伎はまもなく禁止され野郎歌舞伎という名で復活をみとめられるにあたって、男方・女方とわけて俳優の名を書きだす必要が生じた。そうして以後女性を演ずる俳優の職分が、確立したわけである。京都では絲縷権三郎、江戸では村山左近が初めて女に扮した人といわれる。もっとも初期のお国歌舞伎でも、美少年が女装した例はあり、お国の男装と相対して、性の倒錯は、歌舞伎の効果的演出として、ひとつの伝統になっていたともいえる。 脚本がおいおい複雑化するにつれて、舞台の上の女の役もいろいろな職業・年齢などに分化していったが、元禄時代には、上方の和事が、おもに遊里に通う男を主人公としたものである以上、当然その相手役の遊女の役が、女方の芸の主体になっていた。遊女の中で位の高い太夫に扮することが、女方の最も重要な課題となっていたのはそのためである。同時に、女方がつねにもっていなけれぱならないものとされた「色気」という演技のふんい気は、遊女の芸から出発した。そのため、かたぎな町娘や女房の役の表現にも、ある種の媚態が要求されるような特異性が、女方の演技にはあるわけである。女方の役がらは、娘の役、高貴の姫の役などに扮する「若女方」にはじまり、中年の女房や奥方に扮する「花車方」、さらに老女の「老女方」というふうに、俳優自身の年齢に応じた段階があった。このうち「花車方」の花車は、遊里の仲居の役を意味することばであり、こんにちではあまり使われていない.(「演劇百科大事典」)