天海僧正

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てんかいそうじょう


画題

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解説

画題辞典

天海僧正、会津の人、俗姓は三浦、蘆名氏の支族なり、十一歳にして出家し、十四歳にして叡山に登り、檀那一流の奥秘を授かり、次いで三井寺及南都を歴遊して故郷に帰る。元亀二年織田信長の叡山を焚くや、山上の英俊亮信豪信等衆徒と共に甲斐に遯る、武田信玄之を迎へて優遇し、東国の學徒を招きて論席を開く、天海時に講師に推され、辞氣壮烈、義旨深玄、之よりその名漸く世に知らる、豪信即ち之を器として、慧心嫡流の幽旨を授く、蘆名氏の豊公に随ふや、之に従つて常陸に抵り、更に仙波喜多院、下野宗光寺等に住す、慶長十二年徳川家康に聘せられ、山門の探題奉行となり、東塔南光坊に住す、是より南光坊の名高く、家康の崇敬と信任とを受け、京江戸駿府の間に往来し、亦屡々帷幄に参して世に黒衣宰相の称あり、十七年喜多院を修し、十八年日光山を領す、元和六年家康の薨ずるや、天海導師となり久能山に葬る。明年日光山に改葬す、天海又奉行たり、尋いで江戸城内に紅葉山の廟を建て、寛永二年江戸に東叡山寛永寺を創立し山門に准ず、翌年本院に穴太流の灌頂を受く、東叡山之より密法諸流兼學の道場となる、同二十年十月二日年百卅歳を以て寂す、天海宮中に入りて法を後陽成上皇に説く一再ならず、江戸将軍に対しては三代の師として崇敬限りなく、内外の機務に参ず、徳川氏の基礎を固うする為めに献策する所亦少なからず、一代の傑物というべし、勅謚して慈眼大師という、

武蔵喜多院にその画像あり、東京寛永寺に住吉具慶筆慈眼大師縁起絵巻あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

天海僧正、俗姓は三浦、芦名氏の支族である、初名随風、後天海と改めた、又南光坊といふ、会津の人、十一歳にして出家し、十四歳で叡山に登り神蔵寺実全の室に入り檀那一流の奥秘を極め、更に三井寺及び南都の諸寺に遊び、永禄元年故郷に還る、元亀二年、叡山の織田信長の兵燹に罹るや、山上の英俊亮信豪信等衆徒を率ゐて甲斐に入り武田信玄に拠る、信玄大に喜び東関の学徒を招き盛に論席を開く、天海時に推されて講師となる、豪信その器を偉とし慧心嫡流の幽旨を授けた、天正五年甲斐を辞して、又会津に帰り途々上野長楽寺に於て葉上一流の灌頂を受け、天正十八年豊臣秀吉小田原を囲むや当時会津の主芦名盛重、伊達政宗と戦ひ利あらず、其国を去つて秀吉の小田原陣に従ひ、常陸河内郡信太荘を賜ふ、封内に古刹ありて不動院といふ、盛重之を再興して天海を迎へた、慶長四年には仙波の喜多院の主となり尋で下野宗光寺に住した、慶長十二年徳川家康其名声を聞き、召して山門探題奉行とした、十三年家康の命により駿府に赴き翌年京都に入るや、後陽成上皇召して法を宮中に問ひ、権僧正を授け給ふ、十五年再び駿府に赴き血脈を家康に伝へ功により僧正となる、時に上皇宸筆を染めて毘沙門堂の門室を賜ふ、十七年家康の命により専多院を修し、十八年日光山を領す、蓋し予め家康終焉の地としたのである、元和六年家康薨ず、遺命により久能山に葬る、天海導師となり上洛して神号を請ひ大僧正に任ぜられ翌年四月家康を日光山に移葬するに及び其の法事を総ぶ、四年秀忠、天海と謀つて紅葉山の廟を造営し、寛永二年寛永寺を創立するや又之を領せしめた、秀忠薨じ家光将軍となるや崇敬益々篤かつた、二十年七月病に臥し十月二日入寂す、年百三十余、日光山に葬る、勅諡して慈眼大師といふ。  (国史大辞典)

武蔵川越喜多院に其像があり、上野寛永寺には住吉具慶筆『慈眼大師縁起絵巻』がある。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)