大倭長岡

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やまとの ながおか


画題

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解説

前賢故実

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大和国造。神知津彦命の子孫。父は五百足。長岡は若いときから刑律の学を好み、文才にも富んでいた。霊亀年間中に入唐、法律に関する多くの疑問を唐で解決した。当時、法令を語る者は、唐から帰ってきた長岡に教えを請うた。長岡は後に父の大和国造の官職を嗣いだ。養老年間の藤原仲麻呂らによる『養老律令』の撰修、景雲年間の吉備真備らによる『刪定律令』(二十四條)の撰修に参加し、功田四町を賜った。左京大夫を勤めた後に、老齢を理由に官職を辞した。神護景雲二年賀正、称徳天皇の詔により特別に殿上で侍ることになっと。そのときの長岡は、鬢髪が豊かで礼儀作法も正しかった。これを見て、帝は「卿はおいくつですか」と長岡に聞いた。長岡は「臣は八十歳になった」と答えた。帝は久しく感心して、長岡を讃えて正四位下に昇叙させた。翌年薨去。

(『前賢故実』)