塙保己一

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はなわほきいち


画題

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解説

東洋画題綜覧

盲人の国学者、武蔵国児玉郡保木野村の人、延享三年生る、幼名辰之助、後千弥、保木野一と呼び、更に保己一と改めた、別に水母子の号がある、三歳の時疳を病み五歳の時明を失ふ、宝暦八年江戸に上り雨富須賀一の門に入り翌年萩野宗因に国書を学び川島貴林に漢籍及神道を、山岡浚明に律令、東禅寺の僧孝首座に医書を学んだ、苦学精励、十三年一座の衆分となり、明和六年加茂真淵の門に入つたが半歳にして真淵に死別し三十歳の時勾当に進み、爾後保己一と称し師雨富検校の本姓塙を名乗つて天明三年検校に進んだ。博覧強記和漢の典籍を渉猟し、五年には水戸文公に召されて源平盛衰記の校正に与り更に大日本史の校正を属せられ、図書今物語の翻刻を為し、寛政五年四月幕府に請うて和学講談所を設立し多くの門弟に国学を授け享和三年一座総録となり十二年には将軍家斉に謁し文政二年二老に進み四年正月総検校となつたがその八月病に罹り九月十二日歿した。行年七十七、法名を和学院前惣検校心眼智光大居士といふ、明治四十四年正四位を追贈せらる。著す処『群書類従』一千二百七十三種、六百三十五巻、なほ『続群書類従』一千百八十余巻の目録も完成したがこれは上梓を見ずして世を去つた。

塙保己一を画ける作

猪飼嘯谷筆  『塙保己一像』

島田墨仙筆  『塙保己一』   昭和十六年文展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)