坂上田村麻呂

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さかのうえの たむらまろ


画題

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解説

前賢故実

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左京大夫苅田麻呂の子。正三位大納言兼右近衛大将。身長が五尺八寸ほどで、並外れの体力と、鷹やハヤブサのような目、および金色の鬚を持っていた。日頃は談笑に長けていて、老人と子供にも親しまれていた。怒ったときの目は、猛獣でさえひれ伏した。蝦夷征伐のとき、奥羽地域を平定し、赫々たる功名を立てた。弘仁二年に粟田の別荘で薨去、享年五十四歳。訃報を聞いた嵯峨天皇は、心痛で一日ほど政事を問わなかった。帝は、田村麻呂に從二位を贈り、山城宇治郡栗栖村にある土地三町を田村麻呂の墓地として賜った。田村麻呂は、立ったまま棺に安置させられ、甲胄、弓矢、剣、鉾などの武具を携え、都の方面に向かっている形で埋葬された。後に、国に非常事態が生じそうなとき、田村麻呂の墓は鳴動することになる。これは今になっても変わっていない。田村麻呂の墓を将軍塚と呼ばれている。

弘仁帝御製田村麻呂伝

張将軍之武略(張良将軍のように武略があり) 当按轡前駈(紙面で戦の行方を御す) 蕭相国之奇謀(蕭何相国のように奇策があり) 宜執鞭後乗(後方支援に尽力する)

(『前賢故実』)