善光寺

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ぜんこうじ


画題

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解説

画題辞典

善光寺は信濃長野にあり、一光三尊の阿弥陀を本尊として祀る、謂ゆる善光寺如来なり、初め欽明天皇の十三年百済国より摂津難波に漂著せるを此に移し奉りしものにて、天竺月葢長者の持仏なりと伝ふ、弘治元年武田信玄甲斐に新善光寺を作り本尊を之に移せるより、更に織田信長は之を岐阜に、徳川家康は濱松に移せしが、慶長八年信濃本寺に帰住せしものなり、天台宗の大勸進及浄土宗の大本願あリて之に奉仕し、遠近信仰頗る厚し。

善光寺如来絵詞三幅(三河妙源寺所蔵)、善光寺如来絵詞四幅(三河本証寺所蔵)あり、共に国宝なり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

善光寺は信濃国長野市にある、皇極天皇元年勅に依つて創建せらる、善光寺の称は願主の名を本多善光と称したのによると、また、この寺に四号がある、東門には定額山善光寺、西門には不捨山浄土寺、南門には南命山無量寿寺、北門には北空山雲上寺とあるこれである、善光寺の仏即ち善光寺の阿弥陀如来は同寺の本尊にして往昔中天竺、毘舎離国月蓋長者が、閻浮檀金をもつて鋳造された処であると伝へらる、此の仏印度より支那に、支那より百済に、百済より我が国に渡来したまへるを以て、これを三国伝来の如来の一といふ、我国に渡来したのは、欽明天皇の十三年である、推古天皇十年、寺を伊奈郡麻績里宇沼村に草創して、これを供養し、のち皇極天皇元年、水内郡に移し善光寺の本尊とした、慶長二年七月豊太閤一時これを京都大仏殿に安置したが、同年八月復び奉還し今日に至つたものといふ。

御堂に詣で引導する人あつて、内陣に通夜せり、剰本尊の瑠璃壇をめぐり、誠に多劫の宿縁浅からず覚えて、歓喜の涙せきあへず、如来本朝御瑞現の往昔まで思ひつゞけて

てらせなほ濁りにしまぬ難波江のあしまに見えし有明の月  尭恵  (善光寺紀行)

善光寺如来を画いたものに左の作がある。

善光寺如来絵詞三幅(国宝)  三河妙源寺蔵

同      四幅(国宝)  三河本証寺蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)