和気清麿

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わけのきよまろ


画題

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解説

東洋画題綜覧

奈良朝末、平安朝初期の忠臣、備前藤野郡の人、其の先は垂仁天皇の皇子鐸石別命から出てゐる、清麿旧姓は磐梨別公、後、藤野別真人と改め称徳天皇に仕へて従六位上に叙せられ右兵衛少尉となつた、神護景雲三年、太宰主神中臣習宜阿曽麿、八幡宮の託宣だとて奏して曰ふ、道鏡をして皇位に即かしめたなら、天下泰平であらうと、称徳天皇これを聞召され大に迷はせ給ひ、清麿を召して、汝宜しく姉法均尼に代り宇佐八幡宮に赴き神命を聴くべしと宣はせられた、清麿勅命を奉じて宇佐に出たうとすると、道鏡清麿を呼び、官爵を以て清麿を誘ふとした、やがて清麿宇佐神宮に詣で教を乞ふと、神託に曰く、我が国は開闢以来君臣の分定る、臣を以て君とすること未だあらず、天日嗣は必ず皇儲を立てよ、無道の者は退くべしと、清麿は直ちに帰り神教のまゝと奏上した、道鏡大に怒り、清麿の官職を奪ひ別部穢麿と改めて大隅に流した、参議藤原百川、清麿の忠烈に感じて備後の封二十戸を割いて之に与へた、やがて、光仁天皇御即位あらせ給ふや、道鏡を下野に流し、清麿の姓を復し、本位に復せしめ天応元年従四位下に叙せられ、更に摂津大夫となり、民部大輔、中宮太夫を兼ね正四位上に進み、延暦十八年二月卒去、年六十七。  (大日本史)

和気清麿の忠烈は歴史画として古来よく画かれたが、近世の作に左の諸点がある。

石井天風(林響)筆                第一回文展出品

小堀鞆音筆      『和気清麿詣宇佐八幡宮』  日本美術協会出品

菊池容斎筆                    東京帝室博物館蔵

長谷川路可筆     『神教奏上』        東京府養正館蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)